1990年に新設のソビエト連邦大統領に就任し、低下しつつあった求心力を取り戻そうと試みるが、当時のソ連各地の混乱を抑えることは失敗に終わり、保守派らの引き起こした1991年の8月クーデターの失敗後、ゴルバチョフの権威はもはや存在しないようなもだった。1991年12月の独立国家共同体の創設と同時にソ連邦大統領を辞任、これと同時にソビエト連邦は消滅した。
大統領辞任後はそのままロシアに住み、政治活動に専念した時期はあるものの、全体として熱心な政治活動を行うことはなかった。その代わり、超大国最後の指導者として世界各国、とりわけ西側諸国での講演やインタビューなどに応じ、緊迫する国際情勢や、長期的な政権と化すプーチン政権への意見を求められた。2022年8月30日モスクワにて死去、歴代ソ連最高指導者の中では最長寿の91歳であった。 建国者のレーニンは秘密警察のチェーカーを設立し、即座に容疑者の逮捕、投獄、処刑などを行う権限を与えられ、これが粛清の引き金となった。チェーカーは建前上、党に所属するものとされていたが、実際にはレーニン個人の直属であったといっても過言ではない。チェーカーの無差別な処刑は、反体制派はともかく無関係の者までも日常的に処刑しており、時には罪状をでっち上げてまで処刑していた。レーニンは「ニコライの手は血に塗れているのだから裁判は必要ない」という理由で皇帝一家ともども処刑を行うなど法に対する姿勢がずさんであったために、歴史家ドミトリー・ヴォルコゴーノフは「ボリシェビキが法を守るふりさえしなくなった」契機だと批判した。 スターリン時代には密告が奨励されるなど、警察国家・全体主義国家としての色合いが強くなった。モスクワ裁判など形式的な裁判により多くの人々が有罪の判決を言い渡され、処刑されるか各地の強制収容所へ送られることになった。スターリンは、トロツキーやキーロフなどの政敵たちや党内反対派を殺すためにチェーカーを改名したGPU(ゲーペーウー)を用いた。詳細は「大粛清」を参照 スターリン批判後には、このような抑圧的なシステムは幾分か緩和されることになったが、秘密警察のGPUが改編されたKGBとして存続し国民生活を強く監視する体制は残った。 外交関係では、東側の社会主義陣営(ワルシャワ条約機構)の盟主として、アメリカ合衆国を筆頭とする西側の資本主義陣営(北大西洋条約機構)と対決していた(いわゆる冷戦)。 成立当初はフランスやイギリス、アメリカ合衆国など大国の承認を得られず孤立したうえ、シベリア出兵等も行われ、またソビエト政府はバルト三国を攻撃した。 その後、モンゴルや東トルキスタンを衛星国とした。この頃からソ連は各国に承認されていく。特にアメリカはソ連経済への介入をはかりいち早く承認した。 第二次世界大戦始めにはバルト三国やフィンランドにも侵攻した。独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国化させた。さらにユーゴスラビアが主導する非同盟諸国と呼ばれる中華人民共和国・インド・キューバ・エチオピア・エジプト・イラク・シリアなどのいわゆる第三世界と友好協力条約を結び、関係を持つ。 経済相互援助会議(コメコン)ではメキシコ、モザンビーク、フィンランドといった非社会主義協力国もあった。東アジア(ベトナム、ラオス、北朝鮮など)、中南米(チリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラ、リビア、コンゴなど)などでも「民族解放」「反帝国主義」「植民地独立」を唱える共産主義政権(専制政治が行われた政権もある)の成立に協力し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。 ソビエト連邦の軍事支援により、?介石率いる中国国民党(国民政府)との国共内戦に勝利した毛沢東率いる中国共産党によって1949年に建国された中華人民共和国とは、当初「向ソ一辺倒」を掲げ中ソ友好同盟相互援助条約により同盟関係にあったが、1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化する。両国間のこのような対立関係はその後、中華人民共和国における事実上の内乱である文化大革命が終結する1970年代後半まで続くことになる。 そのような対立関係を見たアメリカ合衆国は、ソ連を牽制する意図で1970年代に入り急速に中華人民共和国に接近し、1979年には国交樹立(一方で中華民国とは国交断絶)に至ることになる。一方、中華人民共和国もアメリカの接近に応える形で、東側陣営にもかかわらず当時のモスクワオリンピックのボイコットとロサンゼルスオリンピックの参加という、西側と歩調を合わせる行動を取ることとなる。カンボジア内戦やアンゴラ内戦、オガデン戦争などのように米中ソ三つ巴となる代理戦争も発生した。 その後は、独裁体制を敷きソ連と対立していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉、ゴルバチョフの訪中といった要因により、ソ連と中華人民共和国の関係も再び改善に向かった。 1959年1月に、キューバ革命でアメリカの支援を受けていた独裁者のフルヘンシオ・バティスタを政権の座から引きずり下ろしたフィデル・カストロは、当初米ソ両国との間で比較的中立な立場を取っていたものの、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー政権はキューバ革命後に産業の国営化を進めたカストロを「社会主義者的」と警戒し距離を置いた。同時にソ連が「アメリカの裏庭」にあるキューバの最高指導者となったカストロに援助を申し出たことから両国は急接近し、南北アメリカ大陸における唯一のソ連の友好国となる。 その後、ジョン・F・ケネディ政権下でアメリカはキューバ侵攻を画策し、1961年に「ピッグス湾事件」を起こしたことから、カストロはアメリカのキューバ侵攻に備えてソ連に武器の供与を要求しはじめた。しかしソ連は表立った武器の供与はアメリカを刺激しすぎると考え、キューバ軍への武器提供の代わりに軍事顧問団を置くほか、ソ連の核ミサイルをキューバ国内に配備する「アナディル作戦」を可決し、1962年にソ連製の核ミサイルをキューバに配備した。しかし、このことを察知したアメリカは、海軍艦艇によりキューバ海域を海上封鎖し、キューバに近づくソ連船舶に対する臨検を行うなど、キューバを舞台にしたアメリカとの軍事的緊張を引き起こした(いわゆるキューバ危機)。 その後もソ連はその崩壊まで、キューバに対する軍事的支援のみならず経済的支援も活発に行い、キューバの主要産業であるサトウキビを破格の価格で買い取り、その見返りにキューバがその供給を完全に輸入に頼っている石油を与えるなどさまざまな支援を行い続けた。
司法裁判
外交関係詳細は「ソビエト連邦の外交関係」を参照
概要赤は社会主義国、薄い赤はその影響下にある国
対社会主義陣営(東側)詳細は「東側諸国」を参照
中華人民共和国
キューバ
対資本主義陣営(西側)
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