ソビエト連邦
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刑期を終えたのちにレーニンは西欧に拠点を置き、ロシア社会民主労働党の幹部として頭角を現し始める[注釈 22]

ロシア革命の報を聞きつけロシアに帰国したレーニンはボリシェヴィキを指導し、ブレスト=リトフスク条約の締結、反対派の排除のための赤色テロ、国際的共産主義枠組みであるコミンテルンの創設など、後の世界を左右する出来事に関与した。ロシア内戦赤軍が勝利したのち、レーニンは西欧への革命の波及を試みたが、失敗に終わり、また、同時期のロシアで発生した大飢饉からの反発への妥協として新経済政策(ネップ)への転換を進め、経済は戦前の水準までに回復することとなった。

1920年代に入ると、レーニンの身体はあらゆる部分で悪化しはじめ、療養のために職務から離れることが増えたが、病状が悪化する中でもレーニンはソビエト連邦(ソ連)の構想への意見交換など、政治への関与を弱めることはなく、グルジア問題を巡ってはスターリンと公論までに発展するなど、とても病人とは思わせないような振る舞いを側近にみせた。1923年に3度目の脳卒中を起こすと、もはやまともな意思疎通は不可能となり、1924年1月21日、54歳で死去。遺体は防腐処理を施した上、レーニン廟に安置される。
ヨシフ・スターリン詳細は「ヨシフ・スターリン」を参照ヨシフ・スターリン

本名ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。1878年12月18日、グルジアゴリに生まれる。父ヴィッサリオン・ジュガシヴィリはゴリに工房を構えるグルジア靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは、レンガ職人の娘であり、共に農奴の家系の出身であった[87][88]。生まれ故郷ゴリは、周辺の他の都市と比べて治安の悪い地域であったが[89]、父ヴィッサリオンは靴職人として成功を収めており、一時は十数人の従業員を雇うほどの経済的余裕があった[90]。しかし事業は行き詰りを見せ始め[91]、次第にに心身を支配されるようになった父ヴィッサリオンは、妻や幼い息子(スターリン)への暴力を日常的に振るうようになる[90][92]

母ケテワンはスターリンを引き連れ、1886年、ある司祭の家に居候を始める[93]。また、母ケテワンは、息子スターリンに学校教育を受けさせることを強く熱望していたという[94]。その司祭の計らいによりゴリの教会付属学校に入学を許されたスターリンは、同級生たちと頻繁に争いながらも学業の面では極めて優秀な成績を残した[95][96]。一方で、幼少期のスターリンは病気や怪我に苦しめられ1884年には天然痘に罹患し、命は助かったものの顔面の皮膚には一生の目立つ痘痕を残した。

首都トビリシの神学校に入学したスターリンは[97]、ここでも優秀な成績を収めたが、いつしか神学に対する興味は失い、成績も下がっていった。この頃にはカール・マルクスの著作である『資本論』に影響され[98]、熱心なマルクス主義者となったとされており[99]、スターリンが自らを無神論者だと宣言していた時期と重なることから、ここでの生活が彼に何らしらの影響を及ぼし、活動家の道を志すようになったと思われる。結局スターリンは、トビリシ神学校を去り、戻ることはなかった[100]


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