ソビエト連邦構成共和国
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国際法上の扱い

1944年、改正1936年ソビエト憲法によってそれぞれのソビエト共和国のために赤軍を分割して支部が設立された。これらはまた外交と防衛のために国レベルの兵站を構築し、国際法で法的な独立国家と認識されることになった。これによって、ウクライナSSR白ロシア(ベラルーシ)SSRの2国はソ連としてだけでなく、1945年国際連合総会の設立メンバーとして加わることを許された[3][4][5]
領域

ロシアSFSRの領域外では、共和国はロシア帝国が1700年の大北方戦争から英露協商までに得たほとんどの土地を含んでいた。
国旗・国章・国歌

全ての共和国は国旗国章国歌など独自の国家の象徴を持っていた。なお、ロシアSFSR(現在のロシア)だけは独自の国歌を持っていなかった(ソビエト連邦の国歌を使用)。全ての共和国はレーニン勲章を受章している。
バルト三国の位置づけ

場合によってはバルト三国はソ連の一部と考えられていない。これらの国は1940年にモロトフ・リッベントロップ条約に基づくバルト諸国占領でソ連に違法に併合されたとしており、したがってソビエト支配下でも独立国を維持していたと主張している[6][7]。彼らの視点は欧州連合[8]欧州人権裁判所[9]国際連合人権理事会[10]アメリカ合衆国[11]などに支持されている。対照的にロシア連邦政府と州当局はバルト諸国併合は合法であったとしている[12]共和国亡命政府ラトビアリトアニアの駐米英大使館は、ソ連への編入を認めない立場でソ連末期まで活動を続けた。バルト三国はソ連解体に先んじてソ連に独立を承認されている。
ソ連の構造

ソビエト連邦は建国当初の1922年から1980年代半ばまで高度な中央集権であり、その後政治的な力はミハイル・ゴルバチョフによって行われた再構築によって解放され、結果として中央の支配が緩み、最終的には崩壊に至った。1936年に採用された憲法と、1977年10月に行われた憲法の近代化まで、ソビエト最高会議の党組織はソビエト人民代表によって構成されていた。これらの組織は名目上モスクワのソビエト連邦最高会議の支配の下にあり、ソビエト連邦とともに全ての行政階層で存在した。

国家の行政階層に沿って平行の構造として党組織が存在し、これは共和国の総合的な運用行使のための政治局を許可していた。国の行政機関は並行的な党機関の方針を採り、党中央機関の賛成した全党と国家機関の指名が必要であった。
ソ連からの脱退の権利

憲法ではソ連は政府連合であり、1924年1936年1977年の憲法の条項にしたがってそれぞれの共和国はソ連から脱退する権利を保持したが、冷戦の間はこの権利は無意味なものであるとの見方が支配的だった。しかし、1977年憲法第72条は1991年12月にソ連の事実上の崩壊に利用され、ロシアウクライナベラルーシはソ連から脱退した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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