ソビエト連邦における農業集団化
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ロシア革命によって、地主階級は完全に消滅し、また、自作農(フートル農、オートルプ農)も、三圃制農法にもとづく共同体復活により消滅した[5]。他方、農地だけでなく、1917年末から企業の国有化もすすみ、1918年6月にはほとんどの大工業が国有化された[5]

土地の国有化によって農民階層の平準化は行われたが、農業生産には重大な打撃が生じ、また、ロシア内戦(1917-22)によってロシア社会はさらに疲弊した[5]。危機的状況を打開するため、1918年5月に食料独裁令が公布され、農産物は国家専売とされ、自由取引は禁止された[5]
経済復興のための労働義務

1918年11月に第一次世界大戦が終結すると、経済復興を課題とした1920年春の第9回共産党大会では、運輸・燃料部門の復興が最優先とされ、ついで機械生産部門、最後に消費財生産部門の復興が目指された。この全ての部門において、農民には、すべての労働者への十分な食料供給と生産が義務化され、燃料部門で必要な薪の調達、路線の除雪作業など関連する労働義務も課された[5]
農民の反乱と飢饉詳細は「ロシア飢饉 (1921年-1922年)」を参照

1920年は凶作となり、国の指定する面積への穀物の種付けが強制された[5]。重い負担に不満をもった農民は1920年、西シベリアやタンボフ県で反乱を起こした[6]。1921年には反乱が拡大したため、赤軍正規軍が投入され、毒ガス弾も使用されるなどの熾烈なゲリラ掃討戦が実行された[7]

1921-1922には飢饉が発生した。1921-22年の飢饉ロシア正教教会が被災者を援助しようとすると、ソビエト政府は教会による援助を禁止した[5]。これに反発した聖職者は逮捕され、8000人以上の聖職者が処刑され殺害された[5]
スターリンによる「上からの革命」

1921年1月には、燃料危機、運輸危機、食糧難が連鎖的に発生し、3月にはクロンシュタットの反乱も起きた[6]。また、共産党政権内部でも、党内の民主化を求める声があがり、党の中央集権制は崩壊寸前になっていた[6]。1921年3月の第10回共産党大会では、穀物の国家専売制と割り当て徴発制を廃止し、現物税制度が導入され、農民が納税後に手元に残った農産物を自由に販売できるようになるとされた[6]

しかし、旱魃に対応するなか、党指導部は党員が過剰であるとの理由で党員をふるいにかける「党の総粛清」を開始し、古参党員をのぞく内戦期に入党したものが除名された[6]。党歴の長さに応じて地位とヒエラルヒーがつくられ、古参党員による寡頭支配が成立し、これ以降、入党は厳しく制限された[6]。1922年4月、スターリンが書記長に就任。1922年には社会革命党(エスエル党員)を被告とした社会革命党裁判(英語版)が行われ、死刑判決を受けた。共産党にとっては農民は潜在的には「敵」(反革命分子)とみなされていた[6]

1920年代-1930年代のスターリンによる一元的支配の強化、5か年計画、農業集団化などは「上からの革命」ともいわれる[8]。スターリンによる「上からの革命」で、それまでのネップ時代が終わった[8]

1923年の恐慌の対策をめぐって党内で対立も生じた[9]トロツキーは党の民主化を主張したが、1924年1月の第13回共産党協議会でトロツキーは敗北した[9]。スターリンら主流派はソ連体制の正当性を工場労働者からの支持に見出し、労働者の入党キャンペーンを展開した[9]。しかし、共産主義イデオロギーに陶冶することなく入党させることはさらに党内対立を招いた[9]


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