ソッツィーニ派
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ラクフ大学の学生が十字架に石をぶつける事件が発生すると、イエズス会士に告発され、1638年には領主も断罪され、ラクフの街は混乱で灰燼に帰した[1]。ソッツィーニ派への迫害は続き、1658年、ポーランド議会はソッツィーニ派のメンバーに3年以内の国外退去を布告した。信者の多くはオランダへ亡命し[1]、外にシレジアスロバキアへ移動し、そこで出版活動を続けた。トランシルバニアでは18世紀初頭まで教会が機能して居た。集会では賛美歌を歌い、説教を聴き、教えを説明した教義問答書から学んだ。
ブドニ訳聖書

彼らの聖書はラテン語ヴルガータフランス語から為されたものだった。のちに、シモン・ブドニが彼らの聖書改訂を依頼されたが、全く新しい聖書を出す方が善いと考え、1567年頃にその翻訳に取り掛かった。一つ一つの原語を分析し、旧約本文中に翻訳上の難点が在れば、ブドニは欄外注に字義訳を記した。ブドニが目指したのは忠実で正確な聖書翻訳だった。ブドニ訳の全巻聖書は1572年に出版されたが、出版業者等の改悪の憂き目に合い、それの改訂版でその2年後に正確な聖書が完成された。
反応

カルヴィニズムカトリックの聖職者も、この教派には猛烈な反対をしたが、ジグムント二世やステファン・バトーリなどのポーランド国王が寛容だったので、ソッツィーニ主義者たちは自分たちの信条を教えるのに都合がよかった。

ヴォルテールは『哲学書簡』第7信で、ソッツィーニたち反三位一体教徒について「言論においても、帝国におけると同じように、どのような浮沈が起こるか分からない。アリウス派は三百年の勝利と十二世紀間の忘却のあとで、とうとう自分の灰の中から蘇った」と書いている。

1660年前後にはコメニウスがソッツィーニ派の教義を危険とした[5]
影響

イギリスではユニテリアン教会の創始者ジョン・ビドルや政治思想家リチャード・プライスとジョゼフ・プリーストリーなどにその影響がある。ヨーロッパ啓蒙思想の一つの源流と見なされる。
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ a b c d 高橋康造 2010 p41
^ a b 「ソッツィーニ」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
^ 「ソッツィーニ」百科事典マイペディア
^ 「ソッツィーニ」世界大百科事典
^ a b c 高橋康造 2009 p45-47
^ ポーランド科学アカデミーのズビグネフ・オゴノスキーによる。

参考文献

高橋康造 「コメニウスとツヴィッカーその1 ツヴィッカーの経歴」八戸工業大学紀要28巻、2009、p45-52.

高橋康造 「コメニウスとツヴィッカーその2?コメニウスのソッツィーニ派批判」八戸工業大学紀要29巻、2010、p41-52.

関連項目

理神論

ユニテリアン主義

クラクフ


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