彼らの聖書はラテン語ヴルガータやフランス語から為されたものだった。のちに、シモン・ブドニ
が彼らの聖書改訂を依頼されたが、全く新しい聖書を出す方が善いと考え、1567年頃にその翻訳に取り掛かった。一つ一つの原語を分析し、旧約本文中に翻訳上の難点が在れば、ブドニは欄外注に字義訳を記した。ブドニが目指したのは忠実で正確な聖書翻訳だった。ブドニ訳の全巻聖書は1572年に出版されたが、出版業者等の改悪の憂き目に合い、それの改訂版でその2年後に正確な聖書が完成された。カルヴィニズムもカトリックの聖職者も、この教派には猛烈な反対をしたが、ジグムント二世やステファン・バトーリなどのポーランド国王が寛容だったので、ソッツィーニ主義者たちは自分たちの信条を教えるのに都合がよかった。
ヴォルテールは『哲学書簡』第7信で、ソッツィーニたち反三位一体教徒について「言論においても、帝国におけると同じように、どのような浮沈が起こるか分からない。アリウス派は三百年の勝利と十二世紀間の忘却のあとで、とうとう自分の灰の中から蘇った」と書いている。
1660年前後にはコメニウスがソッツィーニ派の教義を危険とした[5]。 イギリスではユニテリアン教会の創始者ジョン・ビドル
影響
脚注[脚注の使い方]
注釈
出典^ a b c d 高橋康造 2010 p41
^ a b 「ソッツィーニ」ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
^ 「ソッツィーニ」百科事典マイペディア
^ 「ソッツィーニ」世界大百科事典
^ a b c 高橋康造 2009 p45-47
^ ポーランド科学アカデミーのズビグネフ・オゴノスキーによる。
参考文献
高橋康造 「コメニウスとツヴィッカーその1 ツヴィッカーの経歴」八戸工業大学紀要28巻、2009、p45-52.
高橋康造 「コメニウスとツヴィッカーその2?コメニウスのソッツィーニ派批判」八戸工業大学紀要29巻、2010、p41-52.
関連項目
理神論
ユニテリアン主義
クラクフ