ソコト帝国
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ゴビールの住民は軍隊維持のための重税に苦しんでおり、彼は民衆からの熱烈な支持を得た[11]。バワはウスマンに対してムスリム共同体の形成を認め、男はターバンを、女はヴェールを着用することを認めた。ウスマンはゴビールとザムファラとの国境にあるデゲル(英語版)にムスリム共同体を設立した[14]。しかし、ウスマンの力が強大になるにつれ、これに脅威を感じたバワは、ムスリムに対しターバンやヴェールの着用を禁じた[14]。1804年2月、バワの跡を継いだナファタ(英語版)の後継であるユンファ(英語版)は、ウスマンに対して国外追放令を出した[11]。デゲルを追放された彼は北西のグドゥ(英語版)へと拠点を移した[15][16][注 3]
建国

1804年2月、信徒によって、「信仰の司令官」を意味するアミール・アル=ムウミニン(英語版)に選ばれたウスマンは、ユンファを異教徒であると非難してジハードを宣言した[11][15][5][17]。また、ウスマンはゴビールに限らずハウサ諸王国の全てにジハードを宣言し、ハウサ諸王国の指導者に対して改革を求めた[18][注 4]。ウスマン自身はフルベ人であったが、ジハードの当初はハウサ人ムスリムや、ウスマンの影響で改宗したハウサ人農民が中心で、フルベ人は少数だった[19]。しかし、もともとハウサ諸王国で将軍の役を受け持っていたゴビール王は強力な兵力を持っており、これに対抗するにはハウサ人ムスリムの力では足りなかった。そこに部族の連帯によって遊牧のフルベ人たちがジハードに加わったが、彼らはムスリムではなかった。そのため松下 (1972)は、ジハードはフルベ人の支配権力奪取のための闘争となったとしている[19]。ハウサ人ムスリムの中にはフルベ人の支配者としての役割に愛想をつかして離反するものもいた[18]

ウスマンは拠点をグワンドゥ(英語版)に置き、ゴビールやケッビ(英語版)などの連合軍を撃破したのちに囲壁を設けてグワンドゥをジハードの拠点とした。ジハード軍は1805年にはケッビの首都を占領し、次いでザムファラを征服した。1807年にはカツィナ、1808年にはダウラ(英語版)やゴビールの首都であるアルカラワを征服した[2]。ジハードはハウサ地方を越えて中央スーダン全体に広がり、隣国のボルヌにも侵攻した。1809年にはカノを征服した[5][2][20]。1809年までに、ウスマンの呼びかけを拒絶したハウサ諸王国はすべてジハード軍の手に落ちた[18]

ウスマンは広大に広がったジハードを効率的に遂行するために各地域に指導者を任命し、地方のジハードの指揮をゆだねた。指導者たちは自らも各地に指揮をゆだねた[21]。こうした指導者たちはソコト帝国の下位国家である首長国の建設者となった[22]。旧ハウサ諸王国はソコト帝国の首長国に再編成されたが、その際に首長国の首都は新たに建設された[23]。また、バウチゴンベアダマワなどの首長国が新たに形成された[2]。ジハード初期にウスマンによって任命されたアミールは14人のうち13人がフルべ人だった[24]

ソコト帝国の成立年については研究者によって見解が分かれている[25]苅谷 (2017)は、表記の便宜上としてジハードが始まった1804年を建国年としているのに対し[25]島田 (2019)は、ゴビール王を破った1808年を建国年としている[11]
ベロの治世

1812年、ウスマンはイスラーム神学の勉強に専念するために、ジハードで獲得した領土を大きく東西に分け、弟であるアブドゥラーヒを西部の統括者に、息子であるムハンマド・ベロ(英語版)を東部の統括者に任命した[26][27]。これによってアブドゥラーヒはグワンドゥを首都とする国を、ベロはソコトを首都とする国を統治することとなった[27]。1817年にウスマンが死去すると、ソコト帝国の各地の有力者はベロに対して忠誠の誓いを行い、ベロは宗教指導者であるカリフかつソコト帝国のスルターンとなった[26][27]


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