ソウル特別市
[Wikipedia|▼Menu]
仁川国際空港近辺などの韓国の道路交通標識にもハングルと併記して「漢城」と表記されていた。なお、新表記の「首爾(ショウアル)」(後述)が制定されたことに伴い、徐々に状況は変化している。
京城

京城」(日本語読みで「けいじょう」 〈字音仮名遣では「けいじやう」〉、朝鮮語読みで「??(キョンソン)」)は、日本統治時代(1910年 - 1945年)に使われた名称である。韓国併合前から使われたソウルを指す名称の一つ(併合以前の韓国側史料の中にも数多く見受けられる)。1910年(明治43年)10月1日に公布・施行された朝鮮総督府令第7号(地方官官制第十七条ニ依リ府及郡ノ名称及管轄区域左ノ通定ム)に基づいてそれまでの「漢城府」から「京城府」となった[11](「府」は日本内地〈本土〉でいうところの「市」に相当)。実際には第二次世界大戦終戦の1945年以降も数年間使われており、また現在においても京釜線の「京」や、京紡(旧京城紡織)といった企業名等にその名残がみられる。
ソウルの中国語表記

現在、中国語圏ではソウルを「首爾(首爾 / 首?)」(.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Sh?u'?r、広東語:Sau2yi5)と呼称・表記している。

中国語圏で「ソウル」は、長らく朝鮮王朝時代の「漢城(漢城 / ?城)」(?音: Hancheng、広東語:Hon3sing4)の名で呼ばれていた。2005年1月19日李明博ソウル特別市長(当時)は記者会見で、「ソウル」の中国語表記を原音に近づけるとともに、「首都」の意味も含ませた「首爾(首爾 / 首?)」とすることを発表した[12][13]

これを受けて、台湾と香港報道機関は表記を「首爾」に改めた。中国でも、2005年中頃から中国青年報などの報道機関や中国南方航空などの航空会社で「?城」から「首?」へと表記を改め始め、10月には中国政府も「首?」表記への変更を行った[14]

なお、まれに朝鮮語の漢字と組み合わせて使われる例もあるが(例:KORAILの案内における「首爾驛」など)、あくまでソウルの漢字表記は中国語圏用のものであり、朝鮮語としてのソウル表記はこれまでどおりハングルのみの「??」である。
歴史詳細は「ソウルの歴史(英語版、朝鮮語版)」を参照景福宮

古くは百済の都・漢城が置かれており、隣接する河南市にある遺跡からは多くの遺物が出土している。西暦475年高句麗軍によって陥落すると、百済は熊津(公州)に遷都し、統一新羅時代には漢山州と呼ばれ、757年には漢州の漢陽郡に改められた(中原京が小京として漢州の下に設けられた)。高麗時代には市域の北部は楊州、南部は広州と呼ばれ、1067年には三小京のひとつである南京が置かれた。1392年高麗の将軍・李成桂が威化島回軍によって政権を奪取し、1394年には開京(現在の開城)から漢陽遷都を決行した。翌1395年に漢陽府は漢城府に改称され、これ以後、漢城(ソウル)は500年に渡って朝鮮王朝の都となる。1894年から97年にかけて朝鮮を4度訪問したイザベラ・バードは著書『朝鮮紀行』に「ソウルの種々」という一章をもうけ、当時のソウルの様子を活写した。大韓帝国末期の時点では市内が5部49坊に細分化されていた。1905年統監府が設置される。

1910年韓国併合後、漢城府は京城府に改められ(この場合の府は内地(日本本土)では市に相当する)、日本の朝鮮統治機関である朝鮮総督府が置かれた。その後都市化の進行に伴い、1936年には周辺地域を併合して府域を4倍に拡大し、1943年には人口急増のため区制が導入されている(7区=龍山区東大門区城東区西大門区永登浦区鍾路区中区。なお、翌1944年に周辺を併合し麻浦区誕生)。朝鮮総督府の支配下で現在の景福宮光化門・ソウル市庁舎近辺は政治・行政の中心、現在の明洞近辺は経済・商業の中心、龍山は軍事の中心(旧日本軍駐屯地は現在の在韓米軍基地)となった。また京畿道の道庁所在地でもあった(現在京畿道庁は水原市に移転している)。1931年には朝鮮排華事件華僑との衝突事件が起きた。旧ソウル市旗

1945年8月15日の「光復」(第二次世界大戦終戦)後しばらくの間は、「ソウル」・「漢城」とともに「京城」の名称も使われていた。1945年9月から発行された在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁公報の場合、英語版では一貫して「Seoul」だけが使用されているが、日本語版には「京城」と「ソウウル」が混在、朝鮮語版でも「京城」と「??」が混在する(「ソウウル」・「??」の初出は10月8日)。その後、分割占領がはじまり米軍軍政下の1946年8月15日に「ソウル市憲章」が発表され、その第1章第1条で「京城府をソウル市と称し、特別自由市とする。」と正式に規定された。しかし、この憲章には法的効力がなかったため、同年9月18日に米軍政庁法令第106号「ソウル特別市の設置」が公布され、その第2条で「ソウル市を朝鮮の首都としての特別市とする。ソウル市は道と同等の職能と権限を有する。」とされ、同法令第5条の規定により9月28日に京畿道の管轄から離れて「ソウル特別自由市」が設置された。1948年8月15日の大韓民国政府樹立と同時に首都となり、翌1949年8月15日に「ソウル特別市」に改称した。

1950年6月に勃発した朝鮮戦争で市内は破壊され、釜山臨時首都とされた。朝鮮戦争は戦況が一進一退を繰り返したことから、このときのソウルは4回も陥落している。停戦実現後1953年8月1日にソウルへ還都している。その後、韓国の高度経済成長とともに復興、発展を続けて市域を拡大、1988年ソウルオリンピック(韓国では88=パルパル=オリンピックということも)で名実ともに国際都市となった。

ソウル市庁舎は日本統治時代(1926年)のものを使っていたが、隣接して新庁舎が建設され、2012年8月27日に完成した。従来の庁舎は改修され、同年10月26日にソウル図書館(朝鮮語版)としてオープンした。

市内の昌徳宮宗廟朝鮮王陵世界遺産に登録されている。
年表

1945年8月15日(8区) -
光復

1946年(8区)

8月15日 - 京城府がソウル市に改称。

9月28日 - 京畿道ソウル市がソウル特別自由市に昇格。

10月9日 - 市内のに、丁目に、に改称。


1949年(9区)

8月13日

京畿道高陽郡崇仁面および東大門区の一部が合併し、城北区が発足。

京畿道高陽郡纛島面が城東区に編入。

京畿道高陽郡恩平面が西大門区に編入。

京畿道始興郡東面の一部が永登浦区に編入。


8月15日 - ソウル特別自由市がソウル特別市に改称。


1950年-1953年

朝鮮戦争のため一時的に釜山(プサン)を臨時首都とした後ソウルへ還都。


1963年1月1日(9区)

京畿道楊州郡蘆海面が城北区に編入。

京畿道楊州郡九里面の一部が東大門区に編入。

京畿道広州郡九川面・彦州面・中垈面および大旺面の一部が城東区に編入。

京畿道金浦郡陽東面・陽西面、富川郡吾丁面・素砂邑の各一部、始興郡新東面および東面の一部が永登浦区に編入。


1973年7月1日(11区)

京畿道高陽郡神道面の一部が西大門区に編入。

城北区の一部を分離し、道峰区が発足。

永登浦区の一部を分離し、冠岳区が発足。


1975年10月1日(12区) - 城東区の一部を分離し、江南区が発足。

1977年10月1日(13区) - 永登浦区の一部を分離し、江西区が発足。

1979年10月1日(15区)

江南区の一部を分離し、江東区が発足。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:162 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef