IOCは双方に政治決断を迫ったが、北朝鮮側は受け入れなかった[12]。これ以降、翌夏までの南北間の交渉は、北朝鮮側の要求する競技数、種目、場所などが二転三転し、ついに合意に至ることは無かった[11]。また、北朝鮮は1986年9?10月のソウルアジア競技大会に不参加だった。
1987年7月に、「第4回南北スポーツ会談」が行われたが、競技数・種目で合意を見ず、また北朝鮮側が「朝鮮オリンピック」の名称や、開閉会式のソウル・平壌双方での開催の主張をついに譲らなかった[13]。そもそも、開催権を得たのはソウルであり、北朝鮮側の要求は不当そのものだったが、国際的認知度を高めたい韓国、及び、2回連続多数のボイコット国を出したIOCにとって、社会主義国を含む円滑な開催が必要であることから、北朝鮮側が最後の手段として「社会主義国のボイコット」を使えば応じざるを得なかった[13]。
同年9月17日、IOCは開催地を「ソウル」、すなわち単独開催として加盟国各国に招請状を送り、ここに「南北共催」は否定された[13]。ただし、サマランチ会長名の付属文書で、「分散開催」には余地を残した[13]。
大韓航空機爆破事件とボイコット「大韓航空機爆破事件」も参照
前述の共催協議に際し、ソビエト連邦、ドイツ民主共和国(東独)、中華人民共和国が南北共催を支持し、中でもキューバ共和国は「韓国単独開催なら南北分断が促進される」と単独開催の場合は不参加とすることを明言していた[14]。共催支持は、1985年11月時点で、13か国に及んだ[14]。日本の板橋区議会(東京都)も、南北共催(及び南北の競技観覧と離散家族再会を含む)の請願を採択した[14]。しかし、1987年11月時点では、全政権での全方位外交が功を奏しており、中国、ソ連、東欧諸国は参加するか否か明確に表明していなかった[15]。
ところが1987年10月7日に金正日が自ら下した指令により、同年11月29日に大韓航空機爆破事件が発生し、115名が犠牲となった。北朝鮮はこの事件への国家的関与を否定しているものの、社会主義国を含む国際的な批判を受けることとなった。また、旗色を鮮明にしていなかった各国が相次いでオリンピック参加を表明した。
最終的には共催交渉は決裂し、北朝鮮側の拒絶によって、交渉自体が打ち切られた[16][17]。ボイコットをしたのは、最終的に、先述の通り7か国のみに留まった。
2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時のフアン・アントニオ・サマランチIOC会長が、北朝鮮が受け入れないと予想した上で東側諸国に大会参加の口実を与えるために、北朝鮮に南北分散開催について提案したことが改めて確認された[18]。
大会マスコット1988年10月撮影、ホドリのモニュメント
ホドリ(虎の子がモチーフ:男の子)
ホスニ(同:女の子)
ちなみに、こぐまのミーシャやイーグルサムと同様、ホドリにも『走れホドリ』というテレビアニメが存在し韓国で製作され、文化放送(MBC)の系列で放送された。ただし前述の2番組とは異なり、平日の10分枠であった。
公式主題歌(テーマソング)
「Hand in Hand」
英語版[19]と朝鮮語版[20]を、男女混成コーラスグループ「コリアナ」(日本盤での表記はコリアーナ)が歌唱した。 テニスと卓球が正式競技として採用され、特にテニスは1924年のパリ五輪以来64年ぶりの復活となった。女子柔道、野球、テコンドーが公開競技としてオリンピックで開催された。女子柔道とテコンドーは初開催、野球は1984年のロス五輪に続いて2度目の開催。また女子柔道、野球は1992年のバルセロナ五輪、テコンドーは2000年のシドニー五輪から正式種目となった。 その後の政治変動のため、ソ連および東ドイツが参加した最後のオリンピックとなった[注釈 5] 陸上競技男子100mではベン・ジョンソンのドーピングによる金メダル剥奪が発生し、本大会ではドーピング問題に本格的に注目の集まった初の大会ともいえる。また陸上競技で女子短距離三冠を成し遂げたフローレンス・グリフィス=ジョイナーは、当時画期的な、鮮やかなメイクやマニキュアで話題となった。 陸上競技の男子100m決勝は9月24日の午後1時30分に設定された。1987?88年の韓国ではサマータイムが採用されていたため、実質的には午後0時30分である。これは、視聴率が見込めるアメリカのプライムタイムに決勝を合わせるための措置であり、この大会からアメリカ国内における夏季オリンピックの独占放映権を獲得したアメリカのテレビ局・NBCが多額の放映権料を支払う見返りだった[21][22]。その後のオリンピックでも、アメリカとの時差を考慮した競技時間の設定は、たびたび起きている。 現在、ソウルオリンピック主競技場が残るほかソウル交通公社4号線東大門歴史文化公園駅のプラットホームでは当時の壁画を見ることができる。なお、松坡区の選手村のあった地区は大会翌年の1989年に「五輪洞(オリュンドン、???)」という地名が制定された。 ソウル地下鉄やその周辺で付けられている駅番号も、同時期から行われたものである。
ハイライト
テレビ放映権の影響
名残
競技会場
蚕室総合運動場
ソウルオリンピック主競技場(開・閉会式、陸上競技、馬術、サッカー決勝)
蚕室第1水泳場(飛込、水球、競泳、近代五種(水泳))
蚕室体育館(バスケットボール、バレーボール)
蚕室学生体育館
蚕室野球場(野球)
オリンピック公園
蚕室競輪場
体操競技場
レスリング競技場
フェンシング競技場
オリンピックテニスセンター
オリンピックホール
夢村土城(近代五種ランニング)
ソウル競馬場(馬術、近代五種馬術)
I沙里漕艇競技場(カヌー、ボート)
セマウルスポーツホール
漢陽大学校体育館
奨忠体育館