ソウルオリンピック
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韓国外務部は、体育会談の前提としてラングーン事件への措置が必要であるという見解を表明[5]。北朝鮮側は「挑発」に応じられないとし、6月に予定されていた会談は中止となった[5]。さらに8月に至り、北朝鮮側は再開を拒否するが、10月及び11月に韓国側から再開を呼び掛けている[6]。この間、北朝鮮は6月2日に、ロス五輪ボイコットを表明し、これを受けて韓国も単独参加を決定している[6]。同年夏に、ロス五輪はソ連寄りの社会主義国のボイコットを受けつつ、開催された。

10月29日、韓国側は統一チーム結成を前提に、ソウル五輪の北朝鮮での一部共催について協議する旨を明らかにした[6]。11月18日には英『オブザーバー』紙で北朝鮮側から南北共催を非公式に打診していると報じられたが、韓国側はこれを否定した[6]。同月27日、韓国側は共催や統一チーム結成の難易度が高いことを示し、仮にIOCが共催を認めても、北朝鮮での競技実施を承認する国際競技連盟を探す必要があることから、現実的に困難であることから消極的な姿勢を示した[6]。12月10日、平壌放送(国営放送)は、北朝鮮首相(内閣総理)の談話として、ソウル五輪及び朝鮮半島での五輪開催に反対を伝えた[6]

12月14日、韓国側は、分散解散の検討意思があることを表明した[6]。しかし12月16日、北朝鮮オリンピック委員会は、在韓米軍の駐留や国家保安法[注釈 4]により共産圏からの参加選手・役員の安全が保障されないことを理由に、サマランチIOC会長にソウル五輪反対の書簡を送った[7]
一転、北朝鮮からの共催提案

自由主義陣営に属したために社会主義諸国との国交が無かった韓国で開催されるソウル五輪でも、社会主義諸国がボイコットする可能性が懸念された。そのため、韓国と北朝鮮がオリンピックを共催すれば、社会主義諸国が参加しやすくなるとの発想が生まれた。この他、金正日の後継者体制強化のため経済を立て直す必要があり、南北の緊張緩和による軍事費削減や、イメージアップによる西側諸国からの経済援助を期待する等の国内事情が背景にあった[8]

1985年7月30日、北朝鮮副首相の新聞声明として、ボイコットを切り札に「ソウル五輪開催が「強行」されれば、社会主義国非同盟諸国第三世界諸国が不参加になることを理由に共催が賢明である」と表明した[9]。その上で次のような提案をした[9]
第24回オリンピックを南北共催とし、南北統一チームとして出場

「朝鮮オリンピック大会」「朝鮮・平壌―ソウルオリンピック大会」等の名称

競技を半数ずつ開催(23競技中、12競技を韓国、11競技を北朝鮮)

開閉会式は、割り当てられた種目ごと、平壌・ソウルでそれぞれ開催

韓国側は、二つの国内オリンピック委員会にまたがる開催ができないことから、直ちに拒否の姿勢を示した[9]。李永鎬(朝鮮語版)体育相は、北朝鮮側の五輪の政治利用を目的とした態度の豹変を非難し、8月2日と22日に共催を拒否している[9]。しかし、韓国オリンピック委員会や李源京外相は共催に含みを持たせ、北朝鮮側も競技数を減らすことに水面下で同意しつつあった[9]
共催協議の空転、決裂

1985年10月、IOCの仲裁により、ローザンヌで「第1回南北スポーツ会談」が開催されたが、南北それぞれの代表者がIOC幹部と個別会談し、最終日に三者合同討議が行われた[10]。討議では北朝鮮側が共催を主張したのに対し、韓国側は主催権を譲らず、決裂した[11]。翌1986年1月に、再度「第2回南北スポーツ会談」が開催されたが、進展は無かった[12]

1986年4月24日、IOC幹部は北朝鮮側が開催競技数を減らすことを容認していることを明らかにすると、同年5月31日に朴世直(英語版)体育相が、ソウル五輪やアジア競技大会への参加を条件に、共催を認めると発言した[9]。同年6月に、再度「第3回南北スポーツ会談」が開催され、次のような提案が行われた[13]
卓球・アーチェリーの2種目の運営を北朝鮮が行う

一部の予選(ロードレース、サッカー)を北朝鮮で行う

IOCは双方に政治決断を迫ったが、北朝鮮側は受け入れなかった[12]。これ以降、翌夏までの南北間の交渉は、北朝鮮側の要求する競技数、種目、場所などが二転三転し、ついに合意に至ることは無かった[11]。また、北朝鮮は1986年9?10月のソウルアジア競技大会に不参加だった。

1987年7月に、「第4回南北スポーツ会談」が行われたが、競技数・種目で合意を見ず、また北朝鮮側が「朝鮮オリンピック」の名称や、開閉会式のソウル・平壌双方での開催の主張をついに譲らなかった[13]。そもそも、開催権を得たのはソウルであり、北朝鮮側の要求は不当そのものだったが、国際的認知度を高めたい韓国、及び、2回連続多数のボイコット国を出したIOCにとって、社会主義国を含む円滑な開催が必要であることから、北朝鮮側が最後の手段として「社会主義国のボイコット」を使えば応じざるを得なかった[13]

同年9月17日、IOCは開催地を「ソウル」、すなわち単独開催として加盟国各国に招請状を送り、ここに「南北共催」は否定された[13]。ただし、サマランチ会長名の付属文書で、「分散開催」には余地を残した[13]
大韓航空機爆破事件とボイコット「大韓航空機爆破事件」も参照

前述の共催協議に際し、ソビエト連邦ドイツ民主共和国(東独)、中華人民共和国が南北共催を支持し、中でもキューバ共和国は「韓国単独開催なら南北分断が促進される」と単独開催の場合は不参加とすることを明言していた[14]。共催支持は、1985年11月時点で、13か国に及んだ[14]。日本の板橋区議会東京都)も、南北共催(及び南北の競技観覧と離散家族再会を含む)の請願を採択した[14]。しかし、1987年11月時点では、全政権での全方位外交が功を奏しており、中国、ソ連、東欧諸国は参加するか否か明確に表明していなかった[15]

ところが1987年10月7日に金正日が自ら下した指令により、同年11月29日に大韓航空機爆破事件が発生し、115名が犠牲となった。北朝鮮はこの事件への国家的関与を否定しているものの、社会主義国を含む国際的な批判を受けることとなった。また、旗色を鮮明にしていなかった各国が相次いでオリンピック参加を表明した。

最終的には共催交渉は決裂し、北朝鮮側の拒絶によって、交渉自体が打ち切られた[16][17]。ボイコットをしたのは、最終的に、先述の通り7か国のみに留まった。

2019年3月31日、当時の機密扱いだった外交文書が公開され、当時のフアン・アントニオ・サマランチIOC会長が、北朝鮮が受け入れないと予想した上で東側諸国に大会参加の口実を与えるために、北朝鮮に南北分散開催について提案したことが改めて確認された[18]


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