ゼノン_(東ローマ皇帝)
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^ アスパルとアルダブリウスはアリウス派を信仰していたので、カルケドン派の市民はアリウス派の皇帝が誕生することを恐れていた。
^ ゼノンが連れてきたイサウリア人は、アスパルが率いていたゴート人たちと比べると遙かにローマ化の度合いが低かった[9]
^ ゼノンはユリウス・ネポスの風評が悪いことを気にしており、ユリウス・ネポスを全面的には支持していなかった[16]
^ レオンティアはアスパルの次男ユリウス・パトリキウスと婚約していたが[6]、ゼノンがアスパルを殺害した後に婚姻は無効とされ[21]、後にマルキアヌスと結婚していた[8]
^ 実際にオドアケルとイルスとの間に密約があったとも[26]、テオドリックを説得するためオドアケルに着せられた濡れ衣であったとも言われる[18]
^ このときテオドリックがイタリア遠征のために新たに組織した集団が後に東ゴート人と呼ばれるようになるのだが、この集団はゴート人を中心としつつもローマ人やルギー族(英語版)等からなる混成集団であり、もともとはゴート人ではなかった者も多かった[28]。すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(グルトゥンギ(英語版))と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである[29][30]。これは西ゴート人と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的にイスパニアに定着した西ゴート人とアラリック1世が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(テルウィンギ(英語版))は異なる集団だった[30]
^ 代祷や聖餐式で読み上げられる名前を記した蝶番で折り畳める二つ折りの板のこと[1]
^ ジョン・フリーリ著、長縄忠訳、鈴木董監修『イスタンブール―三つの顔をもつ帝都』2005年 NTT出版 P100より。なお、同書のP126によれば、後の皇帝ヘラクレイオスは、ゼノンのようになるのを恐れ、死後三日間は棺に封をしないよう遺言したという。

出典^ a b c d e f g h i j オストロゴルスキー2001、p.88。
^ a b c 尚樹1999、p.123。
^ a b c d e f 尚樹1999、p.124。
^ a b c オストロゴルスキー2001、p.85。


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