セ・リーグ
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1951年1月10日に開催が予定されたセ・リーグ代表者会議を前に、経営危機に直面していた広島と西日本を整理する構想が浮上したものの、当日の会議では問題を先送りされた[3]が、結局シーズン開始直前に西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパース(現:埼玉西武ライオンズ)と合併し脱退。1952年シーズン終了後には大洋ホエールズと松竹ロビンスが合併して「大洋松竹ロビンス」を結成し、6球団になる[要出典]。1951年8月19日には中日スタヂアムが全焼、死者4名、重軽傷者多数を出す惨事となった。

以降、親会社及びチーム名の変更こそあるものの、チーム数そのものの増減は無い。大洋松竹ロビンスが1953年(昭和28年)に下関から大阪へ、さらに1955年(昭和30年)大洋ホエールズに改称して神奈川県川崎市川崎球場へ移転して以降は、各球団の保護地域の変更も無い。同球団は、1978年に横浜市横浜スタジアムへの移転とともに横浜大洋ホエールズに改称しており[注 2]、それ以降、本拠地(球場)所在地の変更も無い。

1954年中日ドラゴンズ杉下茂を擁して球団初のリーグ優勝、その年の日本シリーズでも球団初のパ・リーグ優勝を決めた西鉄ライオンズを破り日本一となった。

1959年6月25日の巨人×大阪戦(後楽園)で、プロ野球史上初めての天覧試合が開催された。1950年代後半から巨人の王貞治長嶋茂雄が球界のスター選手となり、宿命のライバルである村山実G.バッキー金田正一らとの名勝負を繰り広げた。
1960年代?1970年代前半

1960年は、前年まで6年連続最下位に喘いでいた、この年に就任した三原脩監督率いる大洋ホエールズが球団初のリーグ優勝。そしてその年の日本シリーズでも西本幸雄監督率いる毎日大映オリオンズ(大毎)を4勝0敗で制した。

巨人は1961年から球団OBの川上哲治が監督に就任。当時の巨人は打撃陣では長嶋茂雄だけが頼りになる存在で、投手陣でも絶対的な存在がいなかった。そのため、川上は『ドジャースの戦法』をチームに導入し、後に「V9」と呼ばれるセ・リーグ9連覇・日本一という前人未到の黄金期を築き上げる。また、1960年代前半にテレビ中継(主に日本テレビ系列など)の普及も相まって、やがて巨人と阪神は爆発的な人気を得ることになる。特に巨人同様読売新聞グループである日本テレビのプロ野球中継は日テレの看板番組でもあり、巨人は爆発的な人気を獲得し、「子供の好きなものといえば『巨人・大鵬・卵焼き』」と言う言葉ができるなど、V9が始まる前から社会現象となっていた。

そんな中、巨人のライバル球団である阪神タイガース1962年1964年にリーグ優勝を果たすも、前者は元巨人の監督だった水原茂監督率いる東映フライヤーズに、後者は南海ホークスに敗れた。なお、1964年の日本シリーズは関西私鉄同士だったこともあり、『御堂筋シリーズ』と呼ばれた[注 3][注 4]
1965年?1973年(巨人のV9時代)詳細は「V9 (読売ジャイアンツ)」を参照

巨人の監督だった川上は、選手個々の実力よりも、『ドジャースの戦法』の導入に代表されるように、他球団に先んじてチームプレーを導入することを優先した。またスタッフでも牧野茂などを招聘。選手においても、王貞治長嶋茂雄という二人のスーパースター(いわゆるON砲)を筆頭に、森昌彦柴田勲黒江透修高田繁土井正三といった名選手や、堀内恒夫高橋一三城之内邦雄金田正一といった球史に名を残す投手が揃った。様々なポジションに適した人材が揃っており、1番・2番とクリーンナップで点をとり、あとはその点を守備で徹底して守る、日本における「スモールベースボール」の先駆けである一方、V9の期間中、巨人はセ・リーグ最多チーム得点だった。当時の本拠地だった後楽園球場が狭くて打者有利の球場であった事もあり、V9時代の巨人は攻撃力中心のチームであったと見ることができる。

1965年11月、戦力の均衡を目的として第1回プロ野球ドラフト会議が開催された。

なお同年1965年5月シーズン中、国鉄スワローズはサンケイスワローズとなったが(1962年の産経新聞との業務提携以降、経営権は実質的に国鉄から産経に移行していた)、1970年にはヤクルトに経営権が移行、ヤクルトアトムズとなった。1973年には中日スタヂアムの経営権をめぐる恐喝事件(中日スタヂアム事件)が発生した。
1970年代後半 V9の終焉、広島の赤ヘル旋風

1974年与那嶺要監督の中日ドラゴンズが優勝し、巨人の10連覇を阻止、V9時代は終焉を迎えた。10月14日、戦後史に残る長嶋茂雄の引退スピーチが行われた。翌1975年は、古葉竹識監督率いる広島東洋カープ山本浩二衣笠祥雄外木場義郎らを擁して初優勝を果たすとプロ野球界に赤ヘル旋風を巻き起こす。その後も広島カープは高橋慶彦北別府学江夏豊らの活躍もあり、3度の日本一(1979年1980年1984年)を成し遂げる。

巨人は、V9以降、1975年に球団史上初の最下位という結果になった。但し、翌1976年1977年張本勲小林繁ら新戦力の活躍によりV2を果たしている。また、1977年9月3日には王貞治がハンク・アーロンの記録を抜く756号を放ち、初の国民栄誉賞を受賞した。1979年、5位に甘んじたシーズン直後の伊東市での秋季キャンプは『地獄の伊東キャンプ』として語り継がれ、江川卓中畑清松本匡史西本聖角三男ら後に巨人の主力となる選手もいた。
1978年 ヤクルトスワローズ、球団初のリーグ優勝と日本一詳細は「1978年のヤクルトスワローズ」を参照
外国人の活躍

セ・リーグにおいては前掲のバッキー(阪神)や、MLB仕込みの華麗な守備を見せたC.ボイヤー(大洋)、J.シピン(大洋・巨人)らが先駆をなしたが、70年代後半からは日本経済の成長に伴い、MLBでレギュラーであった外国人選手がキャリアの後半にNPBを選ぶケースが増え、R.ホワイトR.スミス(巨人)、赤鬼ことC.マニエル(ヤクルト)が活躍した。そこから、80年代にはR.バース(阪神)、B.ホーナー(ヤクルト)を筆頭とする圧倒的なパワーを持つ打者が各チームに出現、大人気となる。1994年からは外国人枠の拡大(2名⇒3名。


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