セントルイス・カージナルス
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1953年から1996年までバドワイザーで知られ、地元企業でもあるアンハイザー・ブッシュ社がオーナー企業であった(現在はスポンサー)。ブッシュ社の会長だったオーガスト・ブッシュは長年に渡ってオーナーを務め、辣腕を振るった。カージナルスの黄金時代を築いた功労者として1985年に永久欠番に指定されている。

同地区のシカゴ・カブスとは長年に渡ってライバル関係にある。共に長い歴史を持つ人気球団であること、シカゴセントルイスインターステート・ハイウェイによって近距離で結ばれていることなどにより、両チームが対戦する際には多くのファンが両本拠地を訪れる。ワールドシリーズ優勝は2017年シーズン終了時点でカブスは3回に対しカージナルスが11回と差をつけているが、レギュラーシーズンにおいては1221勝1161敗(2017年シーズン終了時点)とカブスが勝ち越している。他にはヤンキースとレッドソックスドジャースジャイアンツも同じような関係として挙げられる。
球団の歴史
創設前?ブラウンズ設立(1882年 - 1899年)

1871年にアメリカ合衆国でプロ野球リーグが始まってからしばらく、セントルイスを本拠地とする球団は現れなかった。ファンのプロ球団を望む声の高まりを受け、ようやく1875年にセントルイス・レッドストッキングスセントルイス・ブラウンストッキングスというプロ球団が活動を始めたが、どちらも経営的に弱く、レッドストッキングスなどはリーグ加盟後わずか2ヶ月で破綻した。一方のブラウンストッキングスは1876年にナショナルリーグに加盟し、この年ジョージ・ブラッドリーがMLB史上初のノーヒットノーランを達成するなどチーム成績もそれほど悪くなかったが、1877年オフにルイビル・グレイズから補強したジム・デブリンジョージ・ホールが、ルイビル在籍時の八百長スキャンダルから永久追放となり、ブラウンストッキングスはこのスキャンダルの煽りを受け倒産した。チャールズ・コミスキー。

その後ブラウンストッキングスのフランチャイズ権は、ドイツ移民で地元セントルイスの名士であったクリス・フォン・デル・アーエに1800ドルで買い取られた。アーエは5年後の1882年に、セントルイス・ブラウンズとして新たに球団を設立し、同年創立されたアメリカン・アソシエーションに加盟する。同リーグにはシンシナティ・レッドストッキングス(現:シンシナティ・レッズ)やピッツバーグ・アルゲニーズ(現:ピッツバーグ・パイレーツ)なども加盟していた。ブラウンズの初年度は37勝43敗でリーグ5位(6チーム中)に留まったが、翌1883年には65勝33敗と勝ち越してリーグ2位に躍進した。その後ブラウンズは、監督兼任選手だったチャールズ・コミスキーの下、1885年から1888年までリーグ4連覇を達成する。当時アメリカン・アソシエーションとナショナルリーグは、後のワールドシリーズの前身となる年間王者決定戦を行っていたが、4連覇中のブラウンズのこのシリーズの戦績は1勝2敗1分けで、ナショナルリーグ球団に引けをとらない実力を持っていた。

この間1884年には新たな野球リーグユニオン・アソシエーションが誕生、セントルイスにはブラウンズとは別にセントルイス・マルーンズというチームが創設された。しかし同リーグの会長とマルーンズのオーナーは同一人物で、リーグ創立もチーム運営を認めてもらうためであり、マルーンズありきのリーグだった。そのため、マルーンズがナショナルリーグへの移動が決定したことで、同リーグは1年限りで消滅。マルーンズ自体はその後2年足らずで解散した。

ブラウンズのチーム運営は順調に見えたが、1890年のプレイヤーズ・リーグの設立が、アメリカン・アソシエーションのリーグ運営に混乱を招いた。ブラウンズも監督のコミスキーとチームの主力だったティップ・オニールやシルバー・キングがチームを突如抜けてプレイヤーズ・リーグに参加するという事態も起きた。それ以前からアメリカン・アソシエーションに加盟していた他チームが徐々にナショナルリーグに移動するなどしていたこともあり、1891年にアメリカン・アソシエーションの解体が決定、残ったブラウンズも翌年からナショナルリーグに加盟することとなった。しかしこれらの混乱はブラウンズの戦力を大きく落とし、チームは1898年まで下位に低迷する。

転機となったのは1899年のことで、クリーブランド・スパイダーズを所有していたオーナー達によって、チームが買収され、セントルイス・パーフェクトズに改名、同時にスパイダーズからサイ・ヤングといった主力選手の多くがチームに加入したのである。これによってチームの戦力は一気に上がり、この年にはナショナルリーグ加盟後初の勝ち越しでシーズンを終え、順位も前年の最下位から5位(12チーム中)に上昇した(逆にスパイダーズはこの年、MLBワーストとなる134敗を記録し、同年限りで解散した)。翌1900年にはリーグのチーム数が8チームに固定され、チーム名も現在の名称であるセントルイス・カージナルスに変更された。
初のワールドシリーズ優勝ロジャース・ホーンスビー。4割を3度達成し、1924年の4割2分4厘は近代野球の最高打率である。

ナショナルリーグに加盟以来、一時的に下位からは脱出はしたものの、20世紀に入ると再び低迷期に入る。しかし、そんなチームが変わり始めるのは、1915年に19歳のロジャース・ホーンスビーが入団してからである。ホーンスビーはその類稀な野球センスでチームのスター選手へと成長。カージナルス在籍中に、6年連続の首位打者、2度の三冠王に輝いた。また、1916年にはブランチ・リッキーがフロント入りし、現在では一般化しているファームシステムを導入、後に数多くの有望選手を送り出すこととなる。リッキーは1919年から1925年のシーズン途中まで監督も務めたが、こちらでは結果を出すことはできなかった。代わってチームのキャプテンとしての役割を担っていたホーンスビーが選手兼任監督に就任。翌1926年には初のリーグ優勝を果たす。

同年のワールドシリーズでは、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグら「マーダラーズ・ロウ」(Murderer's Row 殺人打線)を擁し、当時最強を誇ったニューヨーク・ヤンキースが対戦相手となった。第1戦は落としたものの、第2戦では39歳のピート・アレクサンダーが好投し、初勝利。第3戦ではナックルボーラージェシー・ヘインズが自らも本塁打を放つ活躍をみせ、完封勝利を挙げた。続く第4戦、第5戦は敗れたが、第6戦ではアレクサンダーの好投と打線の奮起によって、10対2と大差で勝利した。最終戦ではヘインズが登板し、3回に1点を奪われたものの、4回にカージナルスが3点を取って逆転。しかし6回に1点を奪われ、3対2となった7回に2アウト満塁のピンチを迎える。ここでアレクサンダーが急遽リリーフ登板、打席に強打のトニー・ラゼリを迎えたが、これを見事三振にしとめ、このピンチを乗り切った。その後8回も抑え、9回2アウトとなったところで一塁走者のルースが盗塁を試みたが、この年のMVPに選ばれた捕手ボブ・オファレルがこれを刺して試合終了。カージナルスは初のワールドシリーズ優勝を果たした。

1927年にはホーンスビーとニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)のフランキー・フリッシュらがトレード。フリッシュはこの年、打率.337・208安打・48盗塁を記録し、ホーンスビーの穴を埋める活躍をみせたが、チームは僅差でリーグ優勝を逃した。

1928年はジャイアンツ、カブスとの熾烈な首位争いを繰り広げた末、2度目のリーグ優勝を果たした。この年にはジム・ボトムリーが打率.325・31本塁打・136打点でナショナルリーグMVPを受賞。また42二塁打・20三塁打を記録し、MLB史上2人目の「20-20-20」(シーズン20二塁打・20三塁打・20本塁打)を達成する活躍をみせた。ワールドシリーズでは再びヤンキースと対戦。しかし、いいところなく4連敗を喫した。
1930年代

1930年はジョージ・ワトキンス(英語版)が新人ではMLB最高となる打率.373を記録したのを始め、フリッシュ、ボトムリー、チック・ヘイフィーら野手全員が打率3割以上を記録し、チーム総得点は1004を数えた(ナショナルリーグでチーム得点が1000を超えたのはこれが唯一。また、この年はリーグ打率も3割を越える極端な打高投低のシーズンでもあった)。チームも終盤から猛烈な追い上げをみせ(8月、9月にかけて44勝13敗)、リーグ優勝を果たす。しかし、ワールドシリーズではフィラデルフィア・アスレチックス(現:オークランド・アスレチックス)に2勝4敗で敗れ去った。

1931年にはフリッシュがMVPと盗塁王、ヘイフィーが首位打者を獲得するなどの活躍で、チーム史上初めてシーズン100勝を記録し、リーグ2連覇を果たす。


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