公園はニューヨーク市公園レクリエーション局
(英語版)との契約に基づいて公園を管理している、民間非営利団体のセントラル・パーク管理委員会によって維持メンテナンス業務が行われている[14]。管理委員会は1980年に市の公園の清掃と修復業務を支援する目的で設立された[26][27]。セントラル・パークの所有権は公園局が保有しており、管理委員会は1998年に公園局と契約を結び維持管理業務のみ公園局から引き継いでいる[28]。管理委員会はニューヨーク市の他の都市公園のメンテナンスのサポートとメンテナンススタッフの教育プログラムを行っており、ハイラインやブルックリン・ブリッジ・パーク(英語版)などの新しい公園の開発を支援している[29]。セントラル・パークは、ニューヨーク市警察の第22(セントラル・パーク)管区[注釈 2]に含まれており、公園東の東84丁目・東85丁目と公園西の西86丁目を接続している86丁目横断道路でパトロールが行われている。パトロールは通常の警察官と補助警官によって行われている[31]。第22管区は全ての犯罪の発生件数が1990年から2019年の間に81.2%減少している。2019年に管区内で発生した事件は殺人1件、強姦1件、強盗21件、重暴行7件、押し込み強盗1件、窃盗37件、自動車窃盗1件であった[32]。また、ニューヨーク市公園エンフォースメント・パトロール(英語版)もセントラル・パークをパトロールしており、セントラル・パーク管理委員会がコンサバトリー・ガーデン(英語版)などの特定の場所の警備のため、期間に限りを設け公園エンフォースメント・パトロールを雇うこともある[33]。
セントラル・パークでは、無料のボランティア救急医療サービスであるセントラル・パーク医療ユニット(英語版)が運営されている。ユニットは自転車、救急車及び全地形対応車を使用して救急対応にあたっている。1975年にユニットが設立されるまではニューヨーク市消防局が救急対応を行っていたが、通報から救急対応を行うまでに30分以上かかることが多かった[34]。 1821年から1855年の間に、ニューヨーク市の人口はほぼ4倍となった。街がマンハッタン島の北へと発展を続けるにつれて、人々は受動的なレクリエーションのために、主に墓地などいくつかの既存の広場に向かうことが多くなった。この動きは、当時人々の集中していたロウアー・マンハッタンの喧騒と混沌とした生活からの逃避と見なされている[35]。マンハッタンの方格設計に基づいた街路敷設の原案となった1811年委員会計画では、セントラル・パークは計画されておらず、その代わりにいくつかの小さな広場を作ることが計画されていた[36]。このため、測量士のジョン・ランデル・ジュニア 1840年代までに、マンハッタン区に新しい大きな公園を建設することが求められるようになった[35][39]。当時のマンハッタン区には17の広場があり、その合計面積は165エーカー (67 ha) で、この中で最も大きい広場はマンハッタン島の南端にある10エーカー (4.0 ha) のバッテリー・パークであった[40]。また、新公園の建設の必要性は、1844年にニューヨーク・イブニング・ポスト紙の編集者であるウィリアム・カレン・ブライアントが、1851年にランドスケープ・アーキテクトのアンドリュー・ジャクソン・ダウニングがそれぞれ著書などにおいて訴えていた[39][41][42]。
歴史ランデルの打ちこんだ測量杭
計画
用地の選定