セントラルパーク
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総訪問者に占める観光客の数は非常に少なく、2009年5月には、年間の公園訪問者2500万人のうち約5分の1が観光客ではないかと『Crain's New York Business』誌は推定している[25]。2011年の管理委員会の報告書では、総訪問者数のうち14%は初めてセントラル・パークを訪問する人、3分の2は少なくとも週に1回は公園に入る常連客、約70%はニューヨーク市在住であるとされている[23]。また、一日当たりの訪問客が最も多いのは夏の週末で、ほとんどの訪問者は能動的なスポーツではなく、ウォーキングや観光などの受動的なレクリエーション活動を公園で行っている[23] 公園南のロックフェラー・センターからのパノラマビュー セントラル・パーク、2004年撮影
管理

公園はニューヨーク市公園レクリエーション局(英語版)との契約に基づいて公園を管理している、民間非営利団体セントラル・パーク管理委員会によって維持メンテナンス業務が行われている[14]。管理委員会は1980年に市の公園の清掃と修復業務を支援する目的で設立された[26][27]。セントラル・パークの所有権は公園局が保有しており、管理委員会は1998年に公園局と契約を結び維持管理業務のみ公園局から引き継いでいる[28]。管理委員会はニューヨーク市の他の都市公園のメンテナンスのサポートとメンテナンススタッフの教育プログラムを行っており、ハイラインやブルックリン・ブリッジ・パーク(英語版)などの新しい公園の開発を支援している[29]

セントラル・パークは、ニューヨーク市警察の第22(セントラル・パーク)管区[注釈 2]に含まれており、公園東の東84丁目・東85丁目と公園西の西86丁目を接続している86丁目横断道路でパトロールが行われている。パトロールは通常の警察官と補助警官によって行われている[31]。第22管区は全ての犯罪の発生件数が1990年から2019年の間に81.2%減少している。2019年に管区内で発生した事件は殺人1件、強姦1件、強盗21件、重暴行7件、押し込み強盗1件、窃盗37件、自動車窃盗1件であった[32]。また、ニューヨーク市公園エンフォースメント・パトロール(英語版)もセントラル・パークをパトロールしており、セントラル・パーク管理委員会がコンサバトリー・ガーデン(英語版)などの特定の場所の警備のため、期間に限りを設け公園エンフォースメント・パトロールを雇うこともある[33]

セントラル・パークでは、無料のボランティア救急医療サービスであるセントラル・パーク医療ユニット(英語版)が運営されている。ユニットは自転車、救急車及び全地形対応車を使用して救急対応にあたっている。1975年にユニットが設立されるまではニューヨーク市消防局が救急対応を行っていたが、通報から救急対応を行うまでに30分以上かかることが多かった[34]
歴史ランデルの打ちこんだ測量杭
計画

1821年から1855年の間に、ニューヨーク市の人口はほぼ4倍となった。街がマンハッタン島の北へと発展を続けるにつれて、人々は受動的なレクリエーションのために、主に墓地などいくつかの既存の広場に向かうことが多くなった。この動きは、当時人々の集中していたロウアー・マンハッタンの喧騒と混沌とした生活からの逃避と見なされている[35]。マンハッタンの方格設計に基づいた街路敷設の原案となった1811年委員会計画では、セントラル・パークは計画されておらず、その代わりにいくつかの小さな広場を作ることが計画されていた[36]。このため、測量士のジョン・ランデル・ジュニア(英語版)は、現在の公園敷地内で交差点を建設するための敷地の測量を行った。この時の測量で打ち込まれたうち唯一現存する測量杭は、デイリーの北の66丁目横断道路沿いにあり、そこが西65丁目と6番街の交差点として計画されていた場所であった[37][38]
用地の選定

1840年代までに、マンハッタン区に新しい大きな公園を建設することが求められるようになった[35][39]。当時のマンハッタン区には17の広場があり、その合計面積は165エーカー (67 ha) で、この中で最も大きい広場はマンハッタン島の南端にある10エーカー (4.0 ha) のバッテリー・パークであった[40]。また、新公園の建設の必要性は、1844年にニューヨーク・イブニング・ポスト紙の編集者であるウィリアム・カレン・ブライアントが、1851年にランドスケープアーキテクトアンドリュー・ジャクソン・ダウニングがそれぞれ著書などにおいて訴えていた[39][41][42]

1851年5月5日に行われたニューヨーク市議会の会議において、第71代ニューヨーク市長アンブローズ・キングスランドは大きな新しい公園を建設する必要性とその利点を説き、その上で公園を建設するために議会が動くことを提案した。キングスランドの提案は承認され、議会の土地委員会に送られた。委員会は新公園の用地としてブライアントが提唱した場所と同じ、アッパー・イースト・サイドの66丁目と75丁目の間にある160エーカー (65 ha) の土地であるジョーンズ・ウッド(英語版)を選定した。しかし、この用地の買収は、立地や他のアップタウンの土地に対して面積が小さいこと、買収にかかるコストなどの面から物議を醸した[43][44][45]。結果としてジョーンズ・ウッドを買収する法案は違憲であるとして無効にされ[46][47]、次にセントラル・パークとして知られる、5番街、8番街、59丁目、106丁目に囲まれた750エーカー (300 ha) の土地が注目された[46][48]。この土地を提案したのはクロトン導水路(英語版)委員会のニコラス・ディーン会長で、クロトン導水路の面積35エーカー (14 ha)、容量150,000,000米ガロン (570,000,000 L) の貯水池が中心にあるためこの地を提案した[46][48]。1853年7月、ニューヨーク州議会はセントラル・パーク法を可決し、現在のセントラル・パークの用地の購入を承認した[49][50]ヴィエル(英語版)によるセントラル・パークの調査において描かれたセネカ・ビレッジ(英語版)の地図


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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