セント・ジョンズ
市
City of St. John's
上段:セント・ジョンズ市街、中段左:ザ・ルーム、下段左:ウォーターストリート、下段右:シグナル・ヒルのカボット・タワー)
愛称: City of Legends, Newfiejohn, Sin Jawns, Town[1][2][3][4]
標語: Avancez (前進せよ)
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度34分3秒 西経52度42分26秒 / 北緯47.56750度 西経52.70722度 / 47.56750; -52.70722
セント・ジョンズ(英語: St. John's)はカナダ・ニューファンドランド・ラブラドール州の州都。人口9万9,512人。広域圏の人口は17万2,918人(2001年統計)。ニューファンドランド島の東南に突き出たアバロン半島の東端に位置する港町である。世界一霧の深い街としてギネス世界記録に認定されている。ニューブランズウィック州のセント・ジョンと混同されがちだが別の街である。
16世紀初頭からヨーロッパ人の到来が始まった、北米で最も古い歴史を持つ街の一つである。 1497年6月24日(洗礼者ヨハネの祭日)、探検家ジョン・カボットがヨーロッパ人として初めて町近くの港に上陸したと言われる。しかし、上陸した地点は今もなお争点になっている。その後、ポルトガルやフランス、バスク地方、イギリスの探検隊や漁船が次々と訪れている。こうして16世紀初頭には、ヨーロッパ人によって漁猟時期に季節キャンプが営まれるようになった。1519年のポルトガルの地図には「サン・ジョアン Sao Joao」として記入されるなど、早くからその存在を地図に見ることが出来る。繁華街ウォーター・ストリート
歴史
1583年、北米植民地開拓のためのエリザベス1世の勅許状を持つ探検家サー・ハンフリー・ギルバート(英語版)が到達し、この付近は勅許に基づくイングランド最初の植民地として宣言された(ただし、この宣言は1713年のユトレヒト条約まで他国には承認されなかった)。しかし、ギルバートはイギリスへ帰還する航海が長引き、すぐにこの地に定住が始まることはなかった。その当時、港の沖には16ものイングランド船と20ものフランス船とポルトガル船が入港していたが、定住者はいなかった。1610年には、ジェームズ1世の勅許状を持つジョン・ガイ(英語版)率いる定住のための入植者がイングランドからセントジョン近郊のキューピッズ(英語版)に到来した。1620年までには、このエリアでイギリス漁船が他国の漁船を圧倒するようになった。しかし、実際にセントジョンズへの定住がなされたのは1630年代になってからのことである。
17世紀にかけて徐々に人口が増えたが、当時はニューファンドランド最大の入植地というには遠い状況だった。人口は、漁の季節になる夏の間には膨らみ、多くの漁師や漁船がセントジョンズを訪れるようになる。
町の防衛は、漁業や商業を巡る争いから必要性を増した。1665年6月、オランダの海軍軍人ミヒール・デ・ロイテルが一時的にセントジョンズを占領する事態になった。1673年にも二度目のオランダ軍による侵略があったが、街にいた人々は国籍などを問わず防衛に参加し、防ぎきった。1689年ごろからイギリス政府は町の要塞化を進めた。フランスの航海者ピエール・ル・モイン・ディベルヴィユによる1696年の占領と破壊の後、イギリスは町を取り返し要塞建設を進めたが、1705年と1708年にもフランス軍に襲われ市街が燃える被害を受けている。七年戦争に呼応して北米で起こったフレンチ・インディアン戦争では、最後の戦闘が1762年にセントジョンズ郊外のシグナルヒルで起こり(シグナルヒルの戦い)、フランス軍が降伏した。
18世紀には、セントジョンズにニューファンドランド植民地の行政府が置かれ、教会の建設や商業の発展などに力を入れ始めた。その後、セント・ジョンズはグランドバンクの豊富な漁獲を背景にした水産業、英国海軍の駐屯地、ニューファンドランド自治領の首都や商業の中心地としてゆっくり発展していく。
古くはアメリカ独立戦争ほか、第二次世界大戦などで、軍港として機能した場所でもある。1949年にニューファンドランドのカナダ編入とともにニューファンドランド州州都となった。 セントジョンズでは1520年頃にはイギリスの漁猟船による季節キャンプが行われていたが、これは定住ではなかった。また、1583年には勅許状に基づくイギリス最初の植民地が宣言されたが、実際の定住が始まるのは1630年代になってからのことである。
北米で最古のイギリス植民地に関する議論