セレウコス朝シリア
[Wikipedia|▼Menu]
セレウコス朝の始祖セレウコス1世(在位:前305年 - 前281年)はマケドニアピリッポス2世(在位:前359年-前336年)の部将アンティオコス(英語版)とその妻ラオディケ(英語版)の間に生まれた[1]。前334年にマケドニア王アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年 - 前323年)がハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を打倒すべく東方遠征を開始すると、そのヘタイロイ(幕僚)の一人として参加した[1]

アレクサンドロス3世は前333年11月のイッソスの戦い、前331年6月のガウガメラの戦いでハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世、在位:前336年-前330年)が率いる軍勢を打ち破り、短期間のうちにその旧領を征服したが、前323年にバビロンで病死した[2]。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。彼らによる一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス古代ギリシア語: χιλ?αρχο?)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった[3]。他、メレアゲルレオンナトスアンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、ラゴスの子プトレマイオス(1世)らが有力な将軍として争った[4][3]。セレウコスはヒュパスピスタイ(楯持ち隊)の指揮官という地位にあったが、当初はまだ役割は限定的なものであった[4]。将軍たちがアレクサンドロス3世の領土分配を話し合ったバビロン会議の際、アンティパトロスが本国マケドニアの守護を任され、アンティゴノスがフリュギアアナトリアを、カルディアのエウメネスカッパドキアとパフラゴニアを、ナウクラティスのクレオメネスエジプトの支配権をそれぞれ承認された。このうちクレオメネスは間もなくプトレマイオスによって排除された[5][3]。一方、セレウコスは領地を与えられることはなかったが、騎兵隊の指揮権を掌握した[3]

その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保し、さらにディアドコイたちに対する優位を確立すべく、アレクサンドロス3世の姉妹クレオパトラ(英語版)との結婚を画策した。だが、そのために既に進んでいたアンティパトロスの娘との縁談を破断としなければならず、アンティパトロスとの関係を悪化させた上、他のディアドコイからの警戒を買った[6]。自分に対する敵意の高まりを感じ取ったペルディッカスは自分に忠実だったカルディアのエウメネスに小アジアの本領を任せ、前321年[注釈 1]ディアドコイの中でも孤立した立場にあったエジプトの支配者プトレマイオスを討つべくエジプトに進軍した[7][6]。セレウコスはペルディッカスの配下としてこの遠征に従軍した。しかし、ペルディッカスはエジプトのナイル川の渡河しようとした際の不手際で失敗し多くの死者を出した[6]。この結果セレウコスは他の将軍と共にペルディッカスを見限り彼を暗殺した[8][7]。恐らくセレウコスはエジプトから撤退するペルディッカスの軍団において指導的役割を果たしていたであろう[9]。その後、アンティパトロスの主導でシリアのトリパラデイソスで再度領土分割の会議が持たれ、セレウコスはバビロニアを手に入れた[10]

前319年にアンティパトロスが死亡すると、その後継者ポリュペルコンとアンティゴノスが対立した。ポリュペルコンを支持したカルディアのエウメネスはセレウコスに帰順を要求したが、セレウコスがこれを拒否すると前318年10月にバビロンを占領した[11]。セレウコスは反撃を試みたが失敗し、エウメネスがさらにメディアに向けて進発すると、前317年のはじめに北部バビロニアに進出していたアンティゴノスの助力を得て二度にわたるバビロニア攻撃を行い支配地を奪還し、翌年にはアンティゴノスのエウメネス討伐軍に合流してエウメネスを打倒した[11][12]。バビロニアを支配するセレウコス1世は、この戦いを通じてディアドコイたちの中で卓越した勢力を持つようになったアンティゴノス1世に疎まれるようになった。前315年にセレウコス1世はバビロニアから追い出され、エジプトのプトレマイオスの下に身を寄せた[13]

プトレマイオスはカッサンドロスリュシマコスらと対アンティゴノスの同盟を結ぶと共に、アンティゴノスの勢力をかく乱するためセレウコスに1000人足らずの兵士を与えてバビロニアに送り出した[14]。セレウコスは移動中の住民たちを糾合することに成功し、前311年春にバビロン市を奪還して周辺の支配権を取り戻すことに成功した[14]。セレウコス朝はセレウコスのバビロン帰還を統治の始まりと見なしており、この出来事はセレウコス暦の起点となった[14]

プトレマイオスとの戦いが順調に行かず、セレウコスの排除にも失敗して苦境に陥ったアンティゴノスは前311年にプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスらと互いの支配地を相互に承認しあう現状追認の協定を締結したが、この協定に加わっていなかったセレウコスはイラン高原方面での勢力拡張を目論んだ[15]。セレウコスは東方の諸属州の支配権を奪回しようとするアンティゴノスの行動を撃退し、イランの支配を確立した[15][16]。イラン高原よりさらに東におけるセレウコスの征服活動は、インドで勢力を拡張していたマウリヤ朝の建設者チャンドラグプタ1世に阻まれて順調に進まなかった。具体的な経過は詳らかではないものの、インドとの境界地帯での戦いは前303年頃、セレウコスがガンダーラ、ゲドロシア、アラコシアに至る広大な地域がマウリヤ朝の支配下に入ることを承認するという結果に終わった[17][18]

この最中、前306年にアンティゴノスが息子のデメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)ともども王を称するようになると、翌前305年にはセレウコスも後に続いて王を名乗り、またプトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスも同じく王を名乗った[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:90 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef