セルビア
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民族や文化が近いロシアは伝統的な友好国であり、中国とも友好的な関係である[10]

セルビアは高中所得国であり、国民皆保険と無料の初等中等教育を国民へ提供している。人間開発指数の分野においては「非常に高い」とランク付けされている。また同国は軍事的中立政策を公式に堅持している国家となっている。2014年以来、同国は2030年までに欧州連合(EU)への加盟を実現させることを目標としており、これまでEU加盟の交渉を幾度に亘って行なって来ている[11]

なお、セルビアは国際連合(UN)、欧州評議会(CoE)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、平和のためのパートナーシップ(PfP)、黒海経済協力機構(BSEC)、中欧自由貿易協定(CEFTA)のメンバーであり、世界貿易機関(WTO)の加盟国の一つともなっている。欧州連合(EU)や北大西洋条約機構(NATO)には加盟していない。
国名

セルビア語では「Република Срби?а / Republika Srbija」([rep?blika s??bija] ( 音声ファイル) レプブリカ・スルビヤ)、通称「Срби?a / Srbija」([s??bija] ( 音声ファイル) スルビヤ)。日本語では「セルビア共和国」、通称「セルビア」。英語の通称は「Serbia」([?s?rbi?] ( 音声ファイル)。漢字による当て字は塞爾維亜、または塞爾維。
歴史
中世・近世・近代詳細は「セルビアの歴史」を参照

6世紀 - バルカン半島西部(当時は東ローマ帝国の領域)にセルビア人が居住を始める。

9世紀 - セルビア人がキリスト教を受容する。

1171年 - セルビア王国が成立。

1346年 - セルビア帝国が成立。

1371年 - セルビア公国が成立。

1459年 - セルビア公国がヨーロッパに侵攻してきたオスマン帝国に滅ぼされる。

1817年 - セルビア公国が成立し、オスマン帝国から自治権を獲得。事実上の独立を果たす。

1838年 - ベオグラード遷都。

1878年 - ベルリン条約により、オスマン帝国から完全に独立。

1882年 - セルビア王国が成立。

1912年 - 第一次バルカン戦争でオスマン帝国に勝利し、領土を拡大。

戦間期ユーゴスラビア王国とその地方区分(1929年

第一次世界大戦後、1918年サン=ジェルマン条約により、旧オーストリア=ハンガリー帝国領の南スラヴ人地域はスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国として分離した。この国はセルビア、モンテネグロとともに「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生した。1919年パリ講和会議では日本の提出した人種差別撤廃案に賛成するなど民族問題に取り組む姿勢をとった。ところが、建国当初から民族間の不和が続き、政治は行き詰まっていた。状況の打開を試み、1929年にセルビア王アレクサンダル1世クーデターを起こしユーゴスラビア王国とした。しかしアレクサンダル1世はマケドニア人の民族主義組織・内部マケドニア革命組織に暗殺され、後継となった摂政パヴレ・カラジョルジェヴィチはクロアチア人に対してクロアチア自治州の設置を認めたものの、民族間の不和は解消されなかった。
第二次世界大戦枢軸国により分割されたユーゴスラビア王国1941年-1943年)。北東がセルビア救国政府

第二次世界大戦ではナチス・ドイツ侵攻され、王国政府はロンドンに逃れて亡命政権を樹立した。ドイツ軍は、傀儡政権であるセルビア救国政府を成立させる一方で、軍政を敷いてセルビアでの事実上の支配権を握った。他方で、ユーゴスラビア王国軍で主流であったセルビア人将校が中心となり、ドイツ軍に対抗する武装組織チェトニックが組織された。しかし、ドイツ軍政当局はドイツ軍の死者1人につきセルビア人市民100人、ドイツ軍の負傷者1人につきセルビア人市民50人を殺害する規定を導入し、セルビア人市民を虐殺した。チェトニックたちの多くはドイツ軍への抵抗をあきらめ、次第に軍政当局に協力する立場へと転じていった。

代わってドイツに対しての抵抗運動を展開したのは、ヨシップ・ブロズ・チトーをはじめとするパルチザンである。チェトニックはドイツ軍への抵抗をしない代わりに、クロアチア独立国でセルビア人がジェノサイドの対象となっていることへの報復としてクロアチア人ボシュニャク人に対する大量虐殺を始めた。これに対して、パルチザンは多民族混成の抵抗運動であり、市民への虐殺をせず、ドイツ軍に対して粘り強く抵抗した。一時はウジツェに解放区を作るなど目覚しい戦果を挙げ、やがて多くの市民がパルチザンに加わっていった。パルチザンは、ソ連軍が侵攻してくる前に、自力でユーゴスラビアから枢軸勢力を駆逐し、ユーゴスラビア民主連邦を成立させた。
社会主義時代「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」および「セルビア社会主義共和国」も参照ユーゴスラビア社会主義連邦共和国とその構成国

ユーゴスラビアを自力で解放することに成功したチトーは、国王ペタル2世の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、独自にユーゴスラビアの再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、次第に共産主義の盟友であったソビエト連邦との路線対立が拡大し、1948年にはコミンフォルムを追放された。それ以降、セルビアを含むユーゴスラビア連邦は、ソビエト連邦の支配からはずれ、他の東側諸国とは一線を画するようになる。ユーゴスラビアは西側諸国との良好な関係を築き、マーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、ソ連と対立していた。1953年にチトーがユーゴスラビアの大統領となり、ソ連と一線を画した社会主義政策を展開した(自主管理社会主義)。また、非同盟運動を推進し、第三世界の主要国としての地位を確立した。

しかし、1980年にチトーが死ぬと、セルビア領であるコソボ社会主義自治州がセルビアからの分離を求め、セルビア人との対立が深刻化するなどの民族対立や、地域の経済格差が顕在化した。セルビア人たちは、ユーゴスラビア連邦の枠内で自民族の権利が不当に低く扱われていると不満を募らせ、他方でスロベニアやクロアチアでは公然とユーゴスラビアからの分離を求める勢力が伸張した。1991年にはクロアチアスロベニアマケドニア共和国がユーゴスラビアから独立、1992年ボスニア・ヘルツェゴビナが独立した。


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