1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公が、ボスニアの首都サラエヴォを行進中に「黒い手」(黒手組)の大セルビア主義者ガヴリロ・プリンツィプに暗殺されるサラエヴォ事件が起こった。そして1ヶ月後の7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦したことで第一次世界大戦が勃発した。セルビアは同盟国に徹底的敗北を喫して一時は滅亡の危機に追い込まれるが、1917年にアメリカ合衆国が連合国側に参戦したことで、最終的には戦勝国となった。
1918年、敗戦により解体したオーストリア=ハンガリー帝国から分離(正式には1919年のサン=ジェルマン条約により確定)したクロアチア・スロベニア・ボスニア・ヘルツェゴビナの3地域及びモンテネグロ王国と合同して、セルビア王国はユーゴスラビアの母体であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)を形成することで発展的に解消した。 セルビアにおいて最も主要な産業は農業や畜産といった第一次産業であり、特に輸出用の豚の飼育が盛んであった。オスマン帝国への反乱の指導者となったカラジョルジェ・ペトロヴィッチやミロシュ・オブレノヴィッチも元々は豚を扱う商人であった。これは、豚を扱う商人のもとに資本が蓄積し、豚商人が地域の名望家となったことを意味している。一方で公国・王国時代を通じて工業化は進まなかった。豚戦争の時代には新たな販路の開拓や食肉加工業の発達などがあったが、工業製品は他国からの輸入に切り替わるにとどまった。
国境の変遷
1878年
1913年1月(第一次バルカン戦争でのオスマン帝国敗退後)
1913年、第一次バルカン戦争終結後。ロンドン条約によりアルバニアの独立が承認される
1918年11月時点の事実上の領土(スレムとモンテネグロを併合)
国内の様子
経済
歴代国王
オブレノヴィッチ家は第二次セルビア蜂起の指導者、ミロシュ・オブレノヴィッチの一族である。
カラジョルジェヴィッチ家は第一次セルビア蜂起の指導者、ジョルジェ・ペトロヴィッチの一族である。
オブレノヴィッチ家(王国)
ミラン1世(1882年 - 1889年)
アレクサンダル1世(1889年 - 1903年)
カラジョルジェヴィッチ家(王国)
ペータル1世(1903 - 1918年 セルビア王、1918年 - 1921年 セルブ・クロアート・スロヴェーン王)
関連項目
セルビア王国
セルビア王国 (中世)
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