セルビア・モンテネグロ
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通貨セルビア・ディナール[3]
ccTLD.yuユーゴスラビア時代から)
^ 地方レベルでは、セルビア語以外の言語を公用語とする自治体もある
^ 最高裁判所の所在地はポドゴリツァ
^ コソボとモンテネグロではユーロ

セルビア・モンテネグロ(セルビア語: Срби?а и Црна Гора (СЦГ) / Srbija i Crna Gora (SCG))は、東南ヨーロッパに存在した連邦国家国家連合)。

ユーゴスラビア国家の事実上の最後の体制であり、2003年ユーゴスラビア連邦共和国から改組・改称して発足した。2006年にモンテネグロ側が独立を宣言したことに伴い、セルビア側も独立宣言と継承国宣言をしたことで消滅した。
概要

セルビア人の人口が多いセルビア共和国と、モンテネグロ共和国、およびセルビア共和国内のヴォイヴォディナ自治州コソボ・メトヒヤ自治州で構成されていた。

ボスニア・ヘルツェゴビナクロアチアハンガリールーマニアブルガリアギリシャアルバニアマケドニアと国境を接していた。

上記の2つの共和国と2つの自治州は民族構成がかなり異なり、またユーゴスラビア連邦政府はセルビアの主導で運営されていたため、これを不満としたモンテネグロ側から独立要求が起こり、その不安定要因を回避するため2003年に国名を「セルビア・モンテネグロ」と改称すると共に、共和国の独立性が高い緩やかな共同国家とした。

しかし、憲法には3年後から連邦離脱を可能とする規定があり、2006年5月21日モンテネグロで行われた住民投票では独立賛成が55.5%を占め、独立を可決するに必要とされた55%を超えた。これを受けて2006年6月3日(現地時間)にモンテネグロ議会が独立を宣言した。

これにより、事実上存続意義を失ったセルビア・モンテネグロ連邦政府は6月4日に大統領のスヴェトザル・マロヴィッチが退任。6月5日セルビア議会も独立を宣言、同時にセルビアをセルビア・モンテネグロの継承国家とすることを宣言した。これをもって、1918年の発足以来88年間に渡って続いたユーゴスラビア国家の枠組みは名実ともに終止符を打つこととなった。

なお、国家としては解体した後も、一部のスポーツ競技では引き続き「セルビア・モンテネグロ」として統一チームを組んでいた時期がある。
国名

正式名称はセルビア語で、Срби?а и Црна Гора(Srbija i Crna Gora; スルビヤ・イ・ツルナ・ゴーラ)。スルビヤがセルビア、ツルナ・ゴーラがモンテネグロのセルビア語名で「黒い山」を意味している(モンテネグロはイタリア語ヴェネツィア方言(ヴェネト語))。イはセルビア語で英語の and にあたる接続詞。
また、 Државна За?едница Срби?а и Црна Гора / Dr?avna Zajednica Srbija i Crna Gora[1]と呼ぶこともある。

公式の英語表記は、Serbia and Montenegro。日本語の表記は、セルビア・モンテネグロ。誤ってセルビア・モンテネグロ連邦と呼ばれることもある(連邦制ではあるが名称に「連邦」とはつかない)。
歴史詳細は「セルビア・モンテネグロの歴史」および「セルビアの歴史」を参照

1918年 - セルブ・クロアート・スロヴェーン王国が成立する。

1929年 - ユーゴスラビア王国に国名変更

1943年 - ユーゴスラビア民主連邦成立

1945年 - ユーゴスラビア連邦人民共和国 (NFRJ)

1963年 - ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ : マケドニア人民共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国クロアチア共和国スロベニア人民共和国モンテネグロ人民共和国で構成される連邦国家)

1980年5月4日 - ヨシップ・ブロズ・チトー死去

1991年6月21日 - スロベニアクロアチアが独立宣言

1991年9月8日 - マケドニアが独立宣言

1992年4月5日 - ボスニア・ヘルツェゴビナが独立宣言

1992年4月28日 - セルビア共和国モンテネグロ共和国からなるユーゴスラビア連邦共和国(FRJ、いわゆる新ユーゴ)

1995年11月21日 - デイトン和平合意成立

1996年 - コソボ解放軍の活動が活発化(コソボ紛争の本格化)

1997年 - ネズミ講破綻を契機として国内が混乱状況に陥ったアルバニアでコソボ解放軍の拠点作りが始まる。アルバニアから大量の武器がコソボに流出したと見られる。

1997年10月 - モンテネグロ独立を掲げるミロ・ジュカノヴィッチがモンテネグロ大統領に就任。

1998年 - セルビア警察、ユーゴスラビア軍によるコソボ解放軍の掃討作戦が始まる。コソボにおける戦闘が激化。国際世論からはアルバニア人に対する不当弾圧との非難を受ける。

1999年1月27日 - マケドニアが台湾と外交関係樹立。中国がマケドニアの国連軍駐留延長を安保理で拒否。アルバニア系武装勢力がユーゴ・コソボ側から侵入。

1999年3月22日 - セルビアとロシア及びアメリカ合衆国の対話が不成立に終わる。

1999年3月24日 - 北大西洋条約機構(NATO)がユーゴスラビア全土に対する空爆を開始。

1999年6月10日 - ユーゴスラビアはロシアによる調停案を受け入れ空爆停止。コソボに国際連合によるコソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が始まる。ユーゴスラビア軍コソボ撤退開始(翌2000年までに終了)。コソボはユーゴスラビアの統治権から切り離される。

1999年11月3日 - モンテネグロでのドイツマルクの流通が合法化される。

2000年9月24日 - ユーゴスラビア連邦共和国大統領選挙実施。スロボダン・ミロシェヴィッチが一方的に勝利を宣言。

2000年10月5日 - ヴォイスラヴ・コシュトニツァを支持する野党勢力が、連邦議会、国営放送、警察署に突入。


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