セルビア・モンテネグロ
[Wikipedia|▼Menu]

1999年3月24日 - 北大西洋条約機構(NATO)がユーゴスラビア全土に対する空爆を開始。

1999年6月10日 - ユーゴスラビアはロシアによる調停案を受け入れ空爆停止。コソボに国際連合によるコソボ暫定行政ミッション(UNMIK)が始まる。ユーゴスラビア軍コソボ撤退開始(翌2000年までに終了)。コソボはユーゴスラビアの統治権から切り離される。

1999年11月3日 - モンテネグロでのドイツマルクの流通が合法化される。

2000年9月24日 - ユーゴスラビア連邦共和国大統領選挙実施。スロボダン・ミロシェヴィッチが一方的に勝利を宣言。

2000年10月5日 - ヴォイスラヴ・コシュトニツァを支持する野党勢力が、連邦議会、国営放送、警察署に突入。革命となりミロシェヴィッチはコシュトニツァに政権を移譲する。

2001年3月31日 - スロボダン・ミロシェヴィッチ逮捕。

2001年6月28日 - スロボダン・ミロシェヴィッチをハーグ旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送。

2002年4月22日 - モンテネグロ議会選挙でモンテネグロ独立派が勝利。

2003年2月4日 - セルビア・モンテネグロに国名変更。政体も緩やかな連邦制となる。

2003年3月21日 - セルビア首相ゾラン・ジンジッチが暗殺(英語版)される。政府はマフィアの一斉検挙をもって対応。1000人以上が逮捕された。

2005年 - セルビア外相が、モンテネグロの連邦からの分離独立を容認。

2006年3月11日 - ミロシェヴィッチ元大統領が獄中で死亡

2006年5月21日 - モンテネグロで独立の可否を問う国民投票。投票率86.3%、賛成55.4%。

2006年6月3日 - モンテネグロが独立を宣言。

2006年6月5日 - セルビアがセルビア・モンテネグロの継承国家であることを宣言。

政治

セルビア及びモンテネグロの2共和国から成る連合国家。

議会は1院制で定数は126名。うち91名はセルビア、35名はモンテネグロから選出された。セルビアの人口が約7,500,000人、モンテネグロの人口が約600,000人であるので、実際の人口比(約12:1)よりも多くの議席がモンテネグロ側に配分されていたことになる。

国家の元首としてセルビア・モンテネグロ大統領が存在した。2003年までのユーゴスラビア大統領が国民の直接投票によって選出されていたのに対して、セルビア・モンテネグロ大統領は議会により選出された。ユーゴスラビア時代に存在した首相は存在せず、大統領が閣議を主催した。セルビア・モンテネグロ大統領には殆ど実権が存在せず、セルビア・モンテネグロを構成する2国家セルビアとモンテネグロの大統領の方がより権限が大きかった。元々セルビアに対応するものとしてのシステムを有していたモンテネグロ大統領の方は比較的安定していたが、セルビアではユーゴスラビア連邦共和国の最後の大統領であるヴォイスラヴ・コシュトニツァがセルビア大統領への鞍替えを狙って出馬するなどいくらかの波乱があった。

セルビアとモンテネグロが共同で所有する国家機関として、国防軍、外務省、および経済や人権に関する省庁の計5つが存在した。これらに関しては、モンテネグロが負担金の支払いを行っていないため、ほとんど機能していないのが実態であった。一方で軍に関しては、連合国家設立の頃からセルビア、モンテネグロの双方が別系統の指揮系統を有していた。外務省に関してもモンテネグロが独自の外交機関を有していた。モンテネグロはセルビアからの独立以前からセルビアとモンテネグロとの国境において入国審査税関を実施していた。
地方行政区分

セルビア・モンテネグロは以下の二つの自治共和国で形成されている。セルビアには2つの自治州がある。

セルビア共和国

コソボ・メトヒヤ自治州

ヴォイヴォディナ自治州


モンテネグロ共和国


地理

大部分が山地で、南西部はアドリア海に面し、南部は山がちで北部は平野が広がらない。気候は内陸部で大陸性気候、海沿いでは地中海性気候
経済

主要産業は食品加工、金属、電気、化学、繊維などの工業。

1990年代、国際社会は一連のユーゴスラビア紛争の主たる責任がミロシェヴィッチ政権にあるとして、ユーゴに対して国連による経済制裁措置を課したため、国内経済は疲弊した。1994年には一か月で300万倍の物価上昇という途轍もないインフレに見舞われた。更に1999年のNATOの空爆でインフラを破壊され、経済の悪化に拍車をかけた。その後経済制裁は解除され、経済は上向いてきているが、いまだに多くの対外債務を抱えていた。

通貨に関してはセルビアとヴォイヴォディナに関してはディナールが流通しているが、コソボ、モンテネグロでは1999年からドイツマルクの流通が公式に認められ、2002年にドイツマルクが流通が完全に停止されてからはユーロが流通している。
国民

住民は、セルビア人が62.6%、アルバニア人が16.5%、モンテネグロ人が5%、マジャル人が3.3%、その他が12.6%(1991年調査)。

言語は、セルビア語が公用語で、かつ最も使われている (95%)。その他は、アルバニア語が5%。

宗教は、セルビア正教会が65%、イスラム教が19%、ローマ・カトリックが4%、プロテスタントが1%、その他11%である。
文化詳細は「セルビア・モンテネグロの文化」を参照
スポーツ詳細は「セルビア・モンテネグロのスポーツ」を参照

社会主義時代のユーゴスラビアはサッカーの強豪国のうちの一つで、東欧のブラジルの異名をとっていた。ワールドカップには1930年の第1回大会から出場していた。ワールドカップでは1930年大会の3位(ただし3位決定戦は無し)、1962年大会の4位等、ヨーロッパ選手権では1960年大会1968年大会での準優勝、年齢別の大会では1987年のワールドユースでの優勝がある。近年は2002年大会や2004年のヨーロッパ選手権などの出場を逃していたが、国名変更後初の予選となる2006年のドイツ大会の予選では堅守などで予選を勝ち抜き10度目の本大会出場を決めた。1974年第10回西ドイツ大会から2006年第18回のドイツ大会まで、偶数の大会(全てヨーロッパ開催)は全て出場、奇数の大会(全てヨーロッパ以外)は全て出場を逃している。

2006 FIFAワールドカップはセルビア・モンテネグロ代表として最初で最後のFIFAワールドカップとなったが、1次リーグで敗退した。

なお、セルビア・モンテネグロの代表チームセルビア代表に受け継がれ、モンテネグロ代表は新たに作られることとなった。新チームは2006年秋から始まるサッカー欧州選手権2008予選から発足した。
祝祭日

日付日本語表記現地語表記備考
1月1日2日元日
1月7日正教クリスマス
4月27日国家の日
5月1日メーデー
移動祝日聖金曜日
移動祝日復活祭月曜日
5月9日戦勝記念日
11月29日共和国施行記念日

出身者

ヴォイスラヴ・コシュトニツァ

ヴィェコスラフ・シュテイ - 指揮者

ドラガン・ストイコビッチ

ディオクレティアヌスポドゴリツァ出身)

エレナ・ドキッチ

ドラグーティン・ディミトリエヴィチ


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef