セルゲイ・ラフマニノフ
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この失敗によりラフマニノフは神経衰弱ならびに完全な自信喪失となり、ほとんど作曲ができない状態に陥った。この間、彼はサーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第2指揮者に就任し、おもに演奏活動にいそしんだ。マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。シャリアピンの結婚式では介添人の1人として立ち会った。ラフマニノフ(1899年)

1898年にはシャリアピンと連れ立っての演奏旅行で訪れたヤルタアントン・チェーホフと出会い、親交を結んだ。チェーホフはラフマニノフの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。

一方、彼の落胆を心配した知人の仲介により、1899年にレフ・トルストイと会見する機会にも恵まれた。ラフマニノフはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、『交響曲第1番』の初演以降に作曲した数少ない作品のひとつである歌曲『運命』(作品21-1)を披露した。しかしこのベートーヴェンの『交響曲第5番』に基づく作品は老作家の不興を買い[注釈 5]、ラフマニノフはさらに深く傷つくことになった。
作曲家としての成功

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}つい最近までは、ラフマニノフの作曲家としての成功に決定的に寄与したのが、彼を心配した周囲の人たちの紹介で出会った精神科医のニコライ・ダーリだったということになっていた。しかし実際には数回の診療を受けただけで、現在ではその暗示療法の効果が疑問視されている。事実、難航していた『ピアノ協奏曲第2番』の第1楽章が完成したのは、治療に通った時期から1年以上経過している。[要出典]

やがて創作への意欲を回復した彼は1900年から翌年にかけて、2台のピアノのための『組曲第2番』(作品17)と『ピアノ協奏曲第2番 ハ短調』(作品18)という2つの大作を完成させた。特にダーリに献呈された『ピアノ協奏曲第2番』は、作曲者自身のピアノとジロティの指揮により初演され、大成功を収めた。この作品によってラフマニノフはグリンカ賞を受賞し、作曲家としての名声を確立した。

1902年、従姉のナターリヤ・サーチナと結婚した。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要だったが、伯母の奔走により無事許可を得ることができた。結婚式の行われた4月に作曲した『12の歌曲集』(作品21)には妻に捧げた『ここは素晴らしい』(第7曲)や、のちに自身でピアノ独奏曲にも編曲した『ライラック』(第5曲)といった作品が含まれている。

1904年から1906年初めまで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。1906年1月には自作のオペラ『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。

同年秋から1909年にかけて、家族とともにドレスデンに滞在した。このドレスデン滞在中の1907年に完成させた『交響曲第2番 ホ短調』(作品27)は翌1908年の1月にペテルブルクで、2月にモスクワで作曲者自身の指揮により初演され、熱狂的な称賛をもって迎えられた。この作品によりラフマニノフは2度目のグリンカ賞を受賞した。1908年にはアムステルダムウィレム・メンゲルベルクとの共演で『ピアノ協奏曲第2番』を演奏した[6]

1909年春、スイスの画家、アルノルト・ベックリン同名絵画複製画に着想を得た交響詩『死の島』(作品29)を作曲した。同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のために『ピアノ協奏曲第3番 ニ短調』(作品30)を作曲した。同年11月にニューヨークで自身ピアニストとして初演(この作品は、当時まだでき上がったばかりだったらしい。‘The Classic Collection’第80号より)し、翌年1月にはグスタフ・マーラーとの共演でこの作品を演奏した。ラフマニノフ(1910年代)

このころ、ラフマニノフは女流文学者のマリエッタ・シャギニャンと文通で意見を交わすようになり、1912年には彼女の選んだ詩による歌曲集(作品34)を作曲した。またこの曲集には終曲としてソプラノ歌手のアントニーナ・ネジダーノヴァのために作曲された『ヴォカリーズ』(作品34-14)が収められている。

1913年の1月から4月にかけてはローマに滞在した。スペイン広場の近く、かつてチャイコフスキーが滞在し創作に励んだのと同じ家を借りて住み、そこでエドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによる翻訳に基づく合唱交響曲『』(作品35)を作曲した。1915年1月には正教会奉神礼音楽の大作『徹夜?』(作品37)を作曲した。1917年の秋には十月革命の進行する中、『ピアノ協奏曲第1番』の大がかりな改訂作業を行った。
母国を離れて

1917年12月、ラフマニノフは十月革命が成就しボリシェヴィキが政権を掌握したロシアを家族とともに後にし、スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。そのまま彼は二度とロシアの地を踏むことはなかった(1930年6月の『ミュージカル・タイムズ』のインタビュー記事にラフマニノフ自身の「僕に唯一門戸を閉ざしているのが、他ならぬ我が祖国ロシアである」という言葉が引用されていたという。‘The Classic Collection’第80号より)。

しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行ったあと、1918年の秋にアメリカに渡り、以後はおもにコンサート・ピアニストとして活動するようになった。それまでラフマニノフのピアニストとしてのレパートリーは自作がほとんどだったが、アメリカ移住を機にベートーヴェンからショパンまで幅広いレパートリーを誇る、きわめて活動的なコンサート・ピアニストへと変貌を遂げたのである。


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