セルゲイ・プロコフィエフ
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

その夏にプロコフィエフは1925年に着手していたディヴェルティメント 作品43を完成させ、音楽院時代の作品であるシンフォニエッタ 作品5/48の改訂を終えた[82][注 13]。同年10月に、休暇からパリに戻るために家族を乗せて運転する途中で事故に見舞われる。車は横転し、プロコフィエフは左手の筋肉の一部を痛めてしまった[83]。これにより事故のすぐ後に行われた演奏旅行で訪れたモスクワでの公演は中止せざるを得なくなったものの[84]、客席から自作曲の演奏を楽しむことができた[85]。また、このことがかえって新しいソビエト音楽を数多く聴き、数年ぶりにロシアの音楽家たちとの交流をするきっかけとなって母国への帰郷に導く役割を果たした[86]ボリショイ劇場ではバレエ『鋼鉄の歩み』のオーディションに加わり、ロシア・プロレタリア音楽家同盟(RAPM)のメンバーから作品について尋問を受けた。彼が受けた質問は次のようなものである。描かれている工場は「労働者が奴隷である資本主義者の工場なのか、労働者が主人であるソビエトの工場なのか。もしこれがソビエトの工場であるなら、プロコフィエフはいつ、どこでこれを取材したのか。1918年から現在に至るまで海外暮らしを続けており、最初にこちらに赴いたのは1927年の2週間であろう?」プロコフィエフはこう回答した。「それは音楽ではなく政治にかかわることですので、お答えいたしません。」RAPMはこのバレエを「平板で低俗な反ソビエト的逸話、ファシズムに近接した革命に反する楽曲」と断罪した。ボリショイ劇場はこのバレエを拒絶するしかなかった[87]

左手が回復したプロコフィエフは、その頃のヨーロッパでの成功にも支えられて1930年代の初頭に米国ツアーを成功裏に終えた[88]。この年に、パリ国立オペラで主席バレエダンサーとなっていたセルジュ・リファールの委嘱に応えて、初めてディアギレフとのかかわりがないバレエ『ドニエプルの岸辺で』 作品51の作曲に取り掛かった[89]。1931年と1932年にはピアノ協奏曲第4番ピアノ協奏曲第5番を完成させている。次の年には交響的な歌 作品57が完成される。友人のミャスコフスキーは、ソ連の中でこの作品を聴くことになる人々のことを念頭に、プロコフィエフに次のように語っている。「(この楽曲は)我々にとってはいまひとつです(中略)ここにはモニュメンタリズムにより我々が意図するものが欠けています - それは貴方が自家薬籠中のものとするよく知られた単純性と広い輪郭ですが、一時的に注意深く避けているのです[90]。」

1930年代初期までにはヨーロッパとアメリカは世界恐慌に苦しめられており、新作のオペラやバレエの上演は難しくなっていた。しかし、ピアニストとしてのプロコフィエフを聴きに来る聴衆の数は、少なくともヨーロッパでは減少を見せなかった[91]。それでも、自らをなによりもまず作曲家であると考えていたプロコフィエフは、ピアニストとしての出番のために失われる作曲の時間の量に怒りを募らせていった[92]。一時ホームシックに罹ったこともあり、ソ連との間に太い関係性を築き始めたのであった。

RAPMが1932年に解散すると、プロコフィエフは祖国とヨーロッパの間で音楽大使として活動するようになっていき[93]、作品の初演と委嘱に関してはソ連からの賛助を得ることが多くなっていった。例えば、『キージェ中尉』はソ連の同名の映画(英語版)のための音楽として委嘱された作品である[94]

他にも、レニングラードのキーロフ劇場からはバレエ『ロメオとジュリエット』の委嘱が入った。この作品はアドリアン・ピオトロフスキー(英語版)とセルゲイ・ラドロフによって「ドラムバレエ」(drambalet、ドラマ化されたバレエ)という発想で創作されたシナリオに曲を付けたものだった[注 14][95]。ラドロフが1934年にキーロフ劇場に辞表を叩きつけるという事件が起こり、モスクワのボリショイ劇場と新しい契約への署名が行われたが、これはピオトロフスキーが関係を維持するとの申し合わせの上でのことだった[96]。しかし、シェイクスピアの原作とは異なってバレエに用意されたハッピー・エンドを巡ってソビエトの文化に関わる役人の間に論争が巻き起こり[97]、芸術委員会の議長を務めていたプラトン・ケルジェンツェフ(英語版)の命によりボリショイ劇場のスタッフの見直しが行われる間、上演は無期限延期となってしまった[98]。親友のミャスコフスキーは何通もの書簡の中でどれだけプロコフィエフにロシアにいて欲しいと思っているかを綴っている[99]
ロシアへの帰国プロコフィエフと2人の息子、スヴャトスラフ、オレグ、そして最初の妻リーナ。1936年

4年にわたってモスクワとパリの間を行きつ戻りつした後の1936年、プロコフィエフはモスクワに居を構えることにした[100][101]。同年には彼の全作品中でも指折りの知名度を誇る『ピーターと狼』が、ナターリャ・サーツ(英語版)の中央児童劇場(英語版)のために作曲された[102]。サーツはさらにプロコフィエフに2曲の子ども用歌曲「Sweet Song」と「Chatterbox」を書くよう説得し[103]、これらに「The Little Pigs」を加えて最終的に『3つの子供の歌』 作品68として出版された[104]。プロコフィエフはさらに巨大な『十月革命20周年記念のためのカンタータ』を作曲し、記念の年中の初演を目指した。しかし、これは芸術委員会を前にしたオーディションを要求したケルジェンツェフによって巧みに阻止されてしまう。「何をしているつもりかね、セルゲイ・セルゲーエヴィチ、人民ものもであるテクストを取り上げて、そこへこのような理解不能な音楽とつけるとは[105]。」このカンタータが部分的な初演を迎えるのは1966年4月5日、作曲者の死からさらに13年の時間を待たねばならなかった[106]

新たな環境に内心不安を感じつつも順応を強いられたプロコフィエフは、公式に承認されたソビエトの詩を歌詞として用いてミサ曲(作品66、79、89)を作曲した。1938年、セルゲイ・エイゼンシュテインと歴史叙事詩による映画『アレクサンドル・ネフスキー』を共同制作し、プロコフィエフ作品でも有数の独創的かつ劇的な音楽を書き上げた。映画の方は非常に粗末な録音状態となったが、彼はこの劇判をメゾソプラノ、合唱と管弦楽のためのカンタータ『アレクサンドル・ネフスキー』へと改作、多くの演奏と録音に恵まれた。『アレクサンドル・ネフスキー』の成功に続き、初となるソビエトを題材にしたオペラ『セミョーン・カトコ』を書き上げる。これはフセヴォロド・メイエルホリドの演出による上演を目指したものだったが、メイエルホリドが1939年6月20日にスターリン秘密警察組織であった内務人民委員部に逮捕され、1940年2月2日に銃殺されたために初演は延期となった[107]。メイエルホリドの死からわずか数か月後に、プロコフィエフは「招待」を受けてスターリンの60歳の誕生日を祝うカンタータ『スターリンへの祝詞』 作品85を作曲している[108]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:198 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef