セルゲイ・プロコフィエフ
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習作を除くと7作のオペラ、7作の交響曲、8作のバレエ音楽、5作のピアノ協奏曲、2作のヴァイオリン協奏曲、2作のチェロ協奏曲[注 2]、そして9作のピアノソナタがある。
概要

帝政期のロシア(現ドネツィク州ウクライナ東部)で生を受け、13歳で帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクサンクトペテルブルク音楽院で作曲・ピアノを学ぶ[2]

1917年のロシア革命以後は、ソビエトの大臣であったアナトリー・ルナチャルスキーの公認を得てロシアを後にし、以後コスモポリタンとしてアメリカ合衆国、ドイツ、パリと居住地を移しながら作曲家、ピアニスト、指揮者として生計を立てた。この頃にスペイン出身の歌手であったカロリナ・コディナと結婚、2人の息子を儲けた。

1930年代の世界恐慌により欧米でバレエやオペラの上演機会が減少すると、1936年にスターリニズム大粛清の吹き荒れる祖国(ソビエト連邦)へ戻る。築いた自分の知名度はスターリンのイデオロギー的プレッシャーから逃れられると目論んでいたが[3]、現実には難しく、ショスタコーヴィチと同様に「形式主義」であるとしてジダーノフ批判の対象となった。祖国では『キージェ中尉』、『ピーターと狼』、『ロメオとジュリエット』、『アレクサンドル・ネフスキー』などの作品が成功を収めた。奇しくもスターリンと同日の1953年3月5日(61歳没)にモスクワで亡くなる。
生涯
幼少期と最初の作曲プロコフィエフに最初に作曲の指導をした作曲家のレインゴリト・グリエール

1891年にロシア帝国エカテリノスラフ県バフムート郡のソンツォフカ(Сонцовка;ラテン文字転写の例:Sontsovka、現在のウクライナドネツィク州、ソンツィフカ(英語版))に生を受けた[4]。父のセルゲイ・アレクセイヴィチ・プロコフィエフ(1846年 - 1910年)は農業技術者で貴族の農場の管理人をしていた。母のマリヤ・グリゴリエヴナ・プロコフィエヴァ(旧姓ジトコヴァ、1855年 - 1924年)はかつてシェレメテフ家(英語版)に支配されていた農奴の家系の出で、その領主の庇護により農奴の子らは若くから舞台と芸術について教えを受けていた[5][6][7][8]。プロコフィエフに最初に作曲を教えたレインゴリト・グリエールが記すところでは、彼女は「美しく聡明な目をした長身の女性(中略)自身がいかにすれば温かく純真な雰囲気を作り出せるかを心得ていた[9]。」1877年に結婚した後、一家はスモレンスクにある小さな地所に移り住んだ。やがてセルゲイ・アレクセイヴィチは土壌技術者の職を得て、学生時代に一緒だったドミトリ・ソンツォフに雇われることになる。一家が引っ越したのはウクライナのステップの中にある彼の地所だったのである[10]

既に2人の娘を失っていたマリヤは、プロコフィエフが生まれるまで音楽に人生を捧げていた。まだ息子が幼い頃にはピアノのレッスンを受けるためにモスクワもしくはサンクトペテルブルクで2か月を過ごしていた[11]。主としてショパンベートーヴェンの作品を夕方に練習していた母のピアノの音色に触発されたセルゲイは、5歳で初めてのピアノ曲を作曲している。『インドのギャロップ』というこの作品は母が譜面に起こしたもので、幼いプロコフィエフが「黒鍵に取り組む気が起きなかった」という理由でヘ長リディア旋法で書かれている[12]。7歳までにはチェスの指し方も覚えた[13]。チェスへの情熱は燃え続け、チェスの世界王者であるホセ・ラウル・カパブランカと知り合いになり、1914年に行われた多面指しの模擬戦では勝利を収めている。ミハイル・ボトヴィニクとも面識があり、1930年代に幾度か対戦が行われた[14][注 3]。9歳になると最初のオペラ『巨人』や[注 4]、序曲、他の様々な小品を作曲していた。
正式な教育と議論を呼んだ初期作品

1902年、母がモスクワ音楽院の学長を務めていたセルゲイ・タネーエフに出会い、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼルの下でプロコフィエフへのピアノと作曲の指導を開始すべきであると助言を受けた[16]。しかしこれは実現せず[17]、タネーエフは代わりに1902年の夏に作曲家でピアニストのレインゴリト・グリエールをソンツォフカに向かわせてプロコフィエフを指導する手はずを整えた[17]。最初の講義が最終段階に至ると、本人の強い希望により11歳の新米作曲家プロコフィエフは初めて交響曲の作曲に取り組んだ[18]。翌年の夏にもグリエールはソンツォフカを訪ねて更なる指導を行っている[19]。数十年が経過してグリエールとのレッスンについて記した際、プロコフィエフは師の思いやりのある教授法には当然の称賛を送りつつも、授けられたものが後になって頭から消し去らねばならなかった「四角四面の」フレーズ構造と因習的な転調だったことには不平を漏らしていた[20]。それでもなお、必要であった理論という道具を備えたプロコフィエフは、不協和和声や一般的でない拍子の実験を開始している。それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い[注 5]、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった[21]1910年頃のサンクトペテルブルク音楽院

息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた[22]。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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