セルゲイ・プロコフィエフ
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それを行うにあたっては彼が「小歌曲」と呼んだ短いピアノ曲を用い[注 5]、これが彼独自の音楽形式の基礎を形成していった[21]1910年頃のサンクトペテルブルク音楽院

息子の才能が開花していく一方で、プロコフィエフの両親はこれほど幼いうちから子どもを音楽の道に進ませてよいものか躊躇っており、モスクワの優良な高校へ通わせる可能性について考えていた[22]。1904年までに母はモスクワではなくサンクトペテルブルクにすることを心に決めており、プロコフィエフと2人でこの当時の首都を訪ねて教育のために移り住めるのかを探った[23]。2人はサンクトペテルブルク音楽院の教授だったアレクサンドル・グラズノフに紹介され、プロコフィエフに会ってその音楽を見てみたいと請われる。プロコフィエフはこの時さらに2つのオペラ『無人島で』と『ペスト流行期の酒宴』を完成させており、4作目の『水の精』に取り組んでいた[24]。グラズノフはいたく感銘を受け、プロコフィエフの母へ息子に音楽院の入学試験を受けさせるよう強く勧めた[25]。プロコフィエフは試験に合格、この年に入学を果たす[26]

クラスメイトの大半に比べて数年も年少のプロコフィエフは風変りで傲慢な人物と見られており、多数の同級生の間違いを記録につけて彼らを苛立たせた[27]。この時期にはピアノをアレクサンドル・ウィンクラー[28]、和声と対位法アナトーリ・リャードフに、指揮法ニコライ・チェレプニンに、管弦楽法ニコライ・リムスキー=コルサコフに学ぶなどした[注 6][29]。授業では作曲家のボリス・アサフィエフニコライ・ミャスコフスキーと一緒になっており、後者とは比較的親密となり生涯にわたる親交を育んだ[30]

サンクトペテルブルクの楽壇の一員として、自らピアノを演奏して披露した自作曲により称賛を受ける傍ら、音楽の反逆者として名声を高めた[31][32]。1909年には特筆すべきことのない成績で作曲のクラスを卒業している。音楽院に籍を置いたまま、アンナ・エシポワにピアノの指導を受け、チェレプニンの指揮のレッスンで研鑽を続けた[33]

1910年に父が他界して財政的支援が滞った[34]。幸運にも音楽院の外部で作曲家、ピアニストとして名を馳せ始めており、サンクトペテルブルクの『現代音楽の夕べ』にも顔を出していた。その場においては冒険的な自作のピアノ作品を複数披露しており、そうした中に非常に半音階的で不協和な練習曲集 作品2(1909年)があった。この作品の演奏が『夕べ』の主催者らに強い感銘を与え、プロコフィエフは彼らの誘いでアルノルト・シェーンベルク3つのピアノ小品 作品11のロシア初演を手掛けることになった[35]。和声の実験はピアノのための『サルカズム(風刺)』 作品17(1912年)でも続いており、ここでは多調の使用が推し進められている[36]。最初の2作のピアノ協奏曲が書かれたのはこの頃で、そのうちピアノ協奏曲第2番は1913年8月23日、パヴロフスクでの初演の際にスキャンダルを巻き起こした。ある人物は次のように絶叫して会場を後にしたと記述している。「こんな未来派の音楽なんかくそくらえだ! 屋根の上の猫ですらましな音楽を奏でるぞ!」一方でモダニストらは魅入られていた[37]

1911年にロシアの高名な音楽学者音楽評論家アレクサンドル・オッソフスキーから支援がもたらされる。彼が音楽出版社のユルゲンソンにプロコフィエフに協力的な手紙を送り、これによって彼のもとに連絡が届いたのである[38]。プロコフィエフは1913年に初の国外旅行に出てパリロンドンを巡り、その中ではじめてセルゲイ・ディアギレフバレエ・リュスに出会うことになる[39]
初期バレエ

1914年、プロコフィエフは音楽院の課程を「ピアノ勝負」への参加で締めくくる。これはピアノの成績上位5名がシュレーダーのグランドピアノをかけて競う大会であった。プロコフィエフは自作のピアノ協奏曲第1番を演奏して優勝を手にした[40]

その後まもなく、ロンドンへ赴いたプロコフィエフは興行主のセルゲイ・ディアギレフに連絡を取った。ディアギレフはプロコフィエフにとって初めてとなるバレエ『アラとロリー』を委嘱する。しかし、1915年にプロコフィエフがイタリアにいたディアギレフに作品を持っていくと、「ロシア的でない」として拒絶されてしまう[41]。「国家的な性格の音楽」を書くように強く促した彼は[42]、次いでバレエ『道化師』を委嘱した[注 7]。ディアギレフの指導に従い、プロコフィエフは民俗誌学者のアレクサンドル・アファナーシェフの民話集から題材を選定し[43]、ストーリーはある道化師と度重なる信用詐欺にまつわるものとなった。これは以前にディアギレフがイーゴリ・ストラヴィンスキーにバレエになり得る題材として提案していたもので、プロコフィエフがこれをバレエのシナリオへと落とし込むにあたってはディアギレフと彼の振付師レオニード・マシーンが力を貸した[44]。バレエの経験の少ないプロコフィエフは、ディアギレフの仔細にわたる批評に基づいて1920年代に作品に大幅な改訂を加えることになり[注 8]、そうしてやっと初演にこぎつけたのであった[46]

1921年5月17日のバレエの初演は大きな成功を収め、観客からの賛辞に迎えられた。その中にはジャン・コクトー、ストラヴィンスキー、モーリス・ラヴェルらの姿もあった。ストラヴィンスキーは本作を「楽しく聴くことができるただひとつの現代音楽作品」と評し、ラヴェルは「天才の作品」と述べた[47]
第一次世界大戦と革命1918年頃のプロコフィエフ。


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