セミノール戦争
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フロリダのセミノールに影響する次の大きい出来事は、1813年から1814年のクリーク戦争であった。1814年、アンドリュー・ジャクソンホースシュー・ベンドの戦いでクリーク族のレッド・スティックス一派(en:Red Sticks)に打ち勝った後に、国民的英雄となった。彼の勝利の後、ジャクソンはクリーク族にフォート・ジャクソン条約(en:Treaty of Fort Jackson)を押しつけ、ジョージア南部と、アラバマ中部および南部のクリーク族の土地を収奪した。この結果、多くのクリーク族が、アラバマとジョージアを去ってフロリダに移動した[15]

1814年にも、アメリカ合衆国と交戦していたイギリスは、西フロリダのペンサコーラや他の場所に軍隊を上陸させ、インディアンの同盟を編成し始めた。1814年5月、イギリス軍はアパラチコーラ川の河口に入り、セミノール、クリーク、および逃亡奴隷に武器を配った。イギリス軍は上流に移動し、プロスペクト・ブラフ(en:Fort Gadsden)に砦を築き始めた。ジャクソン将軍率いるアメリカ軍は、モービルへの攻撃によってイギリス軍と彼らのインディアン同盟軍を撃退した後、ペンサコーラからイギリス軍を追い出した。しかし、プロスペクト・ブラフの砦は機能し続けた。米英戦争が終わったとき、イギリス軍部隊は、イギリス海兵隊のエドワード・ニコルズ少将を除いて西フロリダへ去った。彼は、大砲、マスケット銃、および弾薬を砦に供給することを指示し、ガン条約が、ジョージアとアラバマのクリークの土地を含む、戦争の間に失われたすべてのインディアンの土地の復帰を保証するとインディアンに伝えた。しかしセミノールは、砦の守備には関心がなく、彼らの村に戻った。1815年の夏にニコルズ少将が去る前に、彼は地域の逃亡奴隷に砦の占有をするように誘った。この砦の噂は広まり、それはすぐにアメリカ南部の白人たちに「ニグロ砦」と呼ばれるようになった。彼らは自分たちの奴隷が逃亡したり反乱したりする危険な予感として砦を見なした[16]エドモンド・ペンデルトン・ゲインズの肖像画

アンドリュー・ジャクソンはニグロ砦を排除したがっていたが、それはスペイン領内にあった。1816年4月、彼は、スペインがその砦を排除しないのなら彼が排除することを、西フロリダ総督に知らせた。総督は、彼には砦を取り返す手段がないと返答した。ジャクソンは、エドモンド・ペンデルトン・ゲインズ(en:Edmund P. Gaines)准将を砦の対処に割り当てた。ゲインズは、フロリダの境界のすぐ北のフリント川(en:Flint River (Georgia))に、スコット砦を造るようにダンカン・ラモント・クリンチ(en:Duncan Lamont Clinch)大佐に指示した。そして、ゲインズは、ニューオーリンズからアパラチコーラ川経由でスコット砦へ供給するという彼の意志を明らかにした。これはスペイン領とニグロ砦を通り過ぎることを意味していた。ゲインズは、スコット砦に供給するのにアパラチコーラを使用することは、米国陸軍がセミノールとニグロ砦を監視することになり、そしてもし砦から補給船へ発砲するならば、それはアメリカ軍に砦を破壊する口実を与えるであろうとジャクソンに伝えた[17]

スコット砦への供給船隊は、1816年7月にアパラチコーラに到達した。クリンチは100人以上の米兵とおよそ150名のクリーク族の軍隊と共に、アパラチコーラを進軍した。供給船隊はニグロ砦でクリンチに出会い、そして船隊を率いた2隻の砲艦が、砦から川を横切って位置についた。砦の黒人は、アメリカ兵と彼らのクリーク同盟軍に向けて大砲を発射したが、しかし大砲を向ける際の訓練も経験もなかった。アメリカ軍は撃ち返し、そして、砲艦によって撃たれた9番目の発砲は、砦の火薬庫に落ちた。この結果起こった爆発は、ペンサコーラから160km(100マイル)以上離れたところでも聞こえて、砦を破壊した。砦にいたおよそ320名のうち、250名以上は即死し、そして、さらに多くの人はすぐ後に負傷により死亡した。砦の破壊の後、アメリカ陸軍はフロリダから撤退したが、アメリカからの不法入居者と無法者は、セミノールに対して襲撃を実行し、インディアンを殺して、彼らの奴隷と牛を盗んだ。アメリカの白人によって遂行された殺害と窃盗に関する憤りは、セミノールたちの中で広まり、それは報復と、特に入植者から牛を盗むことに通じた。1817年2月24日、セミノールはジョージア州カムデン郡在住の女性、ギャレット夫人と、彼女の3歳になる子供と生後2か月の子供を殺害した[18][19]
ファウルタウンとスコットの虐殺セミノールを探すアメリカ軍米軍の要塞に攻撃を加えるセミノール

ファウルタウンは、スコット砦のおよそ15マイル(24km)東の、ジョージア南西部のミカズキ(en:Miccosukee)の村だった。ファウルタウンのネアマスラ酋長は、フリント川東側における土地の使用について、本来そのエリアはミカズキの主権があると主張して、スコット砦の指揮官と口論になった。ジョージア南部の土地が、フォート・ジャクソン条約でクリーク族に割譲されていたが、ミカズキは、自分たちがクリーク族であるとは考えず、また条約に束縛されることを嫌い、さらにクリーク族にはミカズキの土地を割譲するどんな権利も受け入れなかった。1817年11月、ゲインズ将軍は、ネアマスラを差押えるために250名の部隊を送った。最初の試みはミカズキによって撃退された。翌日の1817年11月22日、ミカズキは彼らの村から追い出された。このファウルタウンへの攻撃を、戦争の始まりの日付とする歴史家もいる。元ジョージア州知事で当時クリークインディアン管理官(en:Indian Agent)であったデヴィッド・ブライディ・ミッチェル(en:David Brydie Mitchell)は、議会への報告書に、ファウルタウンへの攻撃が第1次セミノール戦争の始まりであると述べた[20]

1週間後、R・W・スコット中尉が指揮していたスコット砦への供給船は、アパラチコーラ川で攻撃された。40?50名の兵士がボートの上にいて、この中には20名の病気の軍人と、軍人の妻が7名、およびことによると何人かの子供が含まれていた (セミノールによって殺された4人の子供の報告があるが、彼らは虐殺の初期の報告では言及されず、またそれらの存在は確認されていない)。ボートの乗員のほとんどは、インディアンによって殺された。1名の女性が捕虜となり、6名の生存者が砦に行った[21]

ゲインズ将軍は、フロリダに侵入しないように命令され続けていて、後にフロリダへの短い押しつけを許容するために修正された。アパラチコーラのスコットの虐殺のニュースがワシントンD.C.に届いたとき、ゲインズはスペインの設備をひとつも攻撃せずに、フロリダに侵入して、インディアンを追跡するように命令された。しかし、ゲインズはフェルナンディナを占領した海賊に対応するため、東フロリダに向けて出発した。ジョン・カルフーン陸軍長官は、フロリダの侵入を導くようにアンドリュー・ジャクソンに命令した[22]
ジャクソンのフロリダ侵入

1818年3月、ジャクソンはスコット砦に彼の軍を集めた。その軍は、800名の米国陸軍正規兵、1,000名のテネシー州志願兵、1,000名のジョージア州民兵[23]、およびおよそ1,400人の好意的なロウワー・クリークの戦士を含んでいた。3月13日、ジャクソンの軍隊はアパラチコーラ川を下って進軍しフロリダに入った。ニグロ砦の場所に着くと、ジャクソンは兵士に新しい砦、ガズデン砦を建設させた。軍隊はその後、ミカズキ湖周辺のミカズキの村へ出発した。3月31日、タラハシーのインディアンの町を燃やし、その翌日、ミカズキの町を占拠した。300名以上のインディアンの家が破壊された。その後4月6日にジャクソンは南へと向かい、セントマークスに到着した[24]

セントマークスで、ジャクソンはスペインの砦を占拠した。そこで彼は、バハマ諸島で仕事をするスコットランド人商人のアレクサンダー・ジョージ・アーバスノット(en:Arbuthnot and Ambrister incident)を見つけた。彼はフロリダのインディアンと交易していて、インディアンを代表してイギリスとアメリカの当局に宛てた手書きの手紙を持っていた。銃を販売していたために、彼はインディアンに戦争の準備をさせていると噂された。彼のインディアンとの主な交易の品目は鹿の皮で、恐らく彼は、インディアンが鹿を狩るために必要としていたので、銃を販売していた。2人のインディアンの指導者、ジョサイア・フランシス[25] とホマスレミコは、イギリスの国旗をはためかせながらセントマークスに投錨していたアメリカの船に向かって行き、そして捕らえられた。ジャクソンがセントマークスに到着するとすぐに、2人のインディアンは岸に連行され、絞首刑にされた[26]

ジャクソンは、スワニー川(en:Suwannee River)沿いの村を攻撃するためにセントマークスを離れた。川は主に逃亡奴隷によって占領されていた。4月12日、軍隊はエコンフィナ川(en:Econfina River)沿いにレッドスティックスの村を見つけた。およそ40名の戦士を殺し、およそ100名の女性と子供を捕らえた。彼らは村で、その前年の11月にアパラチコーラ川の上の補給船への攻撃時に捕らえられた女性、エリザベス・スチュワートを見つけた。行軍中、ルート沿いのブラック・セミノールに苦しめられながらも、軍隊はスワニーの村に人影がないことを知った。この時、元イギリス海兵隊で自称イギリスの「担当官」のロバート・アンブリスターが、ジャクソンの軍隊に捕らえられた。セミノールと黒人の主な村を破壊したので、ジャクソンは勝利を宣言し、ジョージア民兵とロウワー・クリークらを家に帰した。残った軍隊はセントマークスに戻った[27]

セントマークスでは、軍事法廷が召集され、セミノールを支援し彼らに戦争を扇動し、合衆国に対して向かわせた罪で、アンブリスターとアーバスノットを告発した。アンブリスターは罪を認めたが、アーバスノットは合法的な取引に従事しただけであったと無実を主張した。裁判所は両方の男性に死刑を言い渡したがその後緩和され、アンブリスターの罰を50回の鞭打ちと1年の重労働に変えた。しかし、ジャクソンはアンブリスターの死刑を復活させた。アンブリスターは1818年4月29日に銃殺隊によって処刑された。アーバスノットは彼の持つ船の桁端から絞首刑にされた[28]

ジャクソンは、セントマークスの守備隊を去り、ガズデン砦に戻った。ジャクソンは最初に、すべてが平和であり、自分はテネシー州ナッシュビルに戻る予定であると報告していた。後に彼はインディアンが集まってスペインから供給を受けていると報告し、5月7日に1,000名の兵士と共にガズデン砦を去り、ペンサコーラへ向かった。西フロリダ総督は、ペンサコーラのインディアンの大部分が女性と子供であり、男性は非武装であったが、ジャクソンは止まらなかったと主張した。ジャクソンが5月23日にペンサコーラに着いたとき、総督と175名のスペイン守備隊は、ペンサコーラ市をジャクソンへ明け渡してバランカス砦(en:Fort Barrancas)に退却した。両軍が2日間砲撃を交わし、スペイン軍は5月28日にバランカス砦を明け渡した。ジャクソンは、西フロリダの軍事知事としてウィリアム・キング大佐を残して帰還した[29]
結果

ジャクソンの行動には国際的な反響があった。国務長官ジョン・クィンシー・アダムズは、ちょうどフロリダ買収のためにスペインとの交渉に入ったところであった。


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