セビリア
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5月から10月まで続く夏季はとても暑く乾燥しており、冬季は穏やかで降雨日が多い[4]。年平均気温は摂氏19.2度であり、大陸ヨーロッパではもっとも温暖な都市のひとつである。7月の平均最高気温は摂氏36.0度であり、大陸ヨーロッパの人口10万人以上の都市としては、同じアンダルシア州のコルドバに次いで2番目に気温が高い都市である。7月には最高気温が摂氏40度を超える日も珍しくない。2003年8月1日

1956年2月12日にはセビリア空港の観測所にて、セビリアにおける最低気温記録である摂氏マイナス5.5度を記録した[5]。NOAA衛星情報サービスによると、1881年8月4日には摂氏50.0度を観測したが、この気温については観測の正確性に論争がなされている[6]。西ヨーロッパが記録的な熱波に襲われた(ヨーロッパ熱波)2003年8月1日には、国立気象観測所がセビリア空港南側の観測所で非公式ながら摂氏47.2度を観測した。摂氏47.2度という気温はスペインでこれまでに記録された最高気温のひとつである。

セビリアの年間日照時間は約3,000時間である。降雪はとても稀であり、2010年1月10日には21世紀になって初の降雪が観測された[7][8][9]。1500年以降、セビリアで記録または報告された降雪は10件のみである。20世紀には2度の降雪しか記録されておらず、2010年以前で最後に一定量の降雪が観測されたのは1954年のことだった[10][11]。年間降水量は500mmから600oであるが、頻繁に集中豪雨に襲われる。最多降雨月は12月であり、12月の平均降水量は99mmである。

セビリアの気候
月1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年
平均最高気温 °C (°F)15.9
(60.6)17.9
(64.2)21.2
(70.2)22.7
(72.9)26.4
(79.5)31.0
(87.8)35.3
(95.5)35.0
(95)31.6
(88.9)25.6
(78.1)20.1
(68.2)16.6
(61.9)24.9
(76.8)
日平均気温 °C (°F)10.6
(51.1)12.2
(54)14.7
(58.5)16.4
(61.5)19.7
(67.5)23.9
(75)27.4
(81.3)27.2
(81)24.5
(76.1)19.6
(67.3)14.8
(58.6)11.8
(53.2)18.6
(65.5)
平均最低気温 °C (°F)5.2
(41.4)6.7
(44.1)8.2
(46.8)10.1
(50.2)13.1
(55.6)16.7
(62.1)19.4
(66.9)19.5
(67.1)17.5
(63.5)13.5
(56.3)9.3
(48.7)6.9
(44.4)12.7
(54.9)
降水量 mm (inch)65
(2.56)54
(2.13)38
(1.5)57
(2.24)34
(1.34)13
(0.51)2
(0.08)6
(0.24)23
(0.91)62
(2.44)84
(3.31)95
(3.74)533
(20.98)
平均降水日数 (?1 mm)66574200266852
平均月間日照時間1791832242342873123513282502181861542,898
出典:世界気象機関 (国際連合),[12] Agencia Estatal de Meteorologia[13]

人口

セビージャの人口推移 1900?2010

出典:INE(
スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[14]、1996年 - [15]

歴史詳細は「セビリアの歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
古代

古代ローマ時代には「ヒスパリス」(ラテン語: Hispalis)と呼ばれた。紀元前8世紀か紀元前9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。カルタゴ人は紀元前216年に都市を破壊したが、紀元前206年にスキピオが近郊にイタリカ(スペイン語版、イタリア語版、英語版)を建設し、ヒスパリスの再建を始めた。
中世

8世紀よりイスラム勢力の支配下に入り、「イスビーリーヤ(???????; ’ishb?l?ya, Isbilya)」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期にはセビリア王国が栄えたが、レコンキスタの進展により1248年カスティーリャ王国フェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャの主要都市として発展した。フェルナンド3世の息子アルフォンソ10世はセビリアをトレドと並ぶ文化の中心都市に変え、トレド翻訳学派の学者達を集めアラビア語文献をラテン語へ翻訳(後にカスティーリャ語へ転換)する文化事業を推進、1254年にトレドとセビリアにアラビア語研究学校を設立(1269年ムルシアでも設立)したが[16][17]、後に次男のサンチョ4世に反乱を起こされセビリアへ追放[18]1284年に死んだ後セビリア大聖堂へ埋葬された。
近世

イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及し、多くのユダヤ人が迫害を受けた。

15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタを完了させるとともに新大陸へ船を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、新大陸との貿易の独占港となって繁栄を誇った。16世紀から17世紀には、セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。
近代

1820年のスペイン立憲革命でセビリアは自由主義者の拠点となった。イサベル2世の治世である1843年から1868年にかけて、セビリアのブルジョアは町の歴史に例を見ない建設ブームに投資し、イサベル2世橋(英語版)(トリアナ橋)などがこの時期に建設されたほか、街路灯が増やされたほか、街路のほとんどはこの時期に舗装された。19世紀後半には市壁の一部を解体し、市街地が東側と南側に拡張可能となった。1894年には電気を供給するためにセビリア電力会社が設立され、1901年にはセビリアに鉄道が通じてプラサ・デ・アルマス駅が開業した。1904年にはセビリア美術館が開館している。1929年には1929年イベロアメリカ博覧会(英語版)が開催され、この博覧会は市街地の南側への拡大を加速させた。

1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、セビリアはアフリカ大陸に近い大都市であることから7月中にはフランシスコ・フランコを主導者とする反乱軍(英語版)に占領された。労働者階級を中心として市民による抵抗も行われたが、反乱軍による厳しい報復措置を受けた。フランコ体制下の1953年には造船所が設立され、1970年代には2,000人以上の労働者を雇用していた。グアダルキビル川はしばしばセビリアの町に氾濫したが、1961年11月には特にひどい洪水が発生し、セビリアは災害地域として宣言された。
現代1992年に開催されたセビリア万博

1975年11月20日にフランシスコ・フランコが死去すると、1979年4月3日には民主化後初の地方自治体選挙が行われ、アンダルシア人党(英語版)(PA)のルイス・ウルニュエラが民主化後初のセビリア市長に選出された。1982年11月5日にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がセビリアを訪れ、50万人を超える人が集まった見本市会場でミサを執り行った。1993年6月13日、ヨハネ・パウロ2世は第45回聖体大会のために再びセビリアを訪れている。

1992年にはクリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見500周年に合わせて、6か月間にわたってセビリア万博が開催された。万博に合わせてインフラの整備が行われており、1991年には高速鉄道AVEがセビリア=マドリード間で開業し、市街地の周囲を円形に結ぶSE-30環状道路が完成し、ラファエル・モネオが設計したセビリア空港の新ターミナルが供用開始され、サンティアゴ・カラトラバが設計したアラミロ橋がグアダルキビール川に架けられた。2002年6月には欧州理事会(欧州サミット)の会場となり、移民政策・欧州連合(EU)拡大・閣僚理事会改革などが協議された[19]

セビリアはスペイン社会労働党(PSOE)の勢力が強い。


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