セビージャの人口推移 1900?2010
出典:INE(スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[14]、1996年 - [15]
歴史詳細は「セビリアの歴史(スペイン語版
古代ローマ時代には「ヒスパリス」(ラテン語: Hispalis)と呼ばれた。紀元前8世紀か紀元前9世紀にタルテソスにより支配され、のちにフェニキア人やカルタゴ人の植民都市となった。カルタゴ人は紀元前216年に都市を破壊したが、紀元前206年にスキピオが近郊にイタリカ
(スペイン語版、イタリア語版、英語版)を建設し、ヒスパリスの再建を始めた。8世紀よりイスラム勢力の支配下に入り、「イスビーリーヤ(???????; ’ishb?l?ya, Isbilya)」と呼ばれるようになった。タイファ諸国の分立期にはセビリア王国が栄えたが、レコンキスタの進展により1248年にカスティーリャ王国のフェルナンド3世に征服され、以降はカスティーリャの主要都市として発展した。フェルナンド3世の息子アルフォンソ10世はセビリアをトレドと並ぶ文化の中心都市に変え、トレド翻訳学派の学者達を集めアラビア語文献をラテン語へ翻訳(後にカスティーリャ語へ転換)する文化事業を推進、1254年にトレドとセビリアにアラビア語研究学校を設立(1269年にムルシアでも設立)したが[16][17]、後に次男のサンチョ4世に反乱を起こされセビリアへ追放[18]、1284年に死んだ後セビリア大聖堂へ埋葬された。 イタリアのジェノヴァ商人がセビリアに拠点をおいて積極的な活動を行っており、中世より港湾都市として栄えた。当初はキリスト教徒とユダヤ教徒の共存がみられたが、14世紀半ばのペスト(黒死病)大流行の原因がユダヤ人に帰されるなど反ユダヤ主義の風潮が強まり、14世紀末にはポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。この動きは他の都市にまで波及し、多くのユダヤ人が迫害を受けた。 15世紀後半、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、同世紀末にレコンキスタを完了させるとともに新大陸へ船を進めた。イベリア半島西岸と航路で結ばれているセビリアは、新大陸との貿易の独占港となって繁栄を誇った。16世紀から17世紀には、セビリアはスペインでもっとも人口の多い都市となり、1649年には13万人を数えた。その年にペストが大流行し、セビリアは重要性を失い始めたが、バロック美術の中心地として重要性を保った。 1820年のスペイン立憲革命でセビリアは自由主義者の拠点となった。イサベル2世の治世である1843年から1868年にかけて、セビリアのブルジョアは町の歴史に例を見ない建設ブームに投資し、イサベル2世橋
近世
近代
1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、セビリアはアフリカ大陸に近い大都市であることから7月中にはフランシスコ・フランコを主導者とする反乱軍(英語版)に占領された。労働者階級を中心として市民による抵抗も行われたが、反乱軍による厳しい報復措置を受けた。フランコ体制下の1953年には造船所が設立され、1970年代には2,000人以上の労働者を雇用していた。グアダルキビル川はしばしばセビリアの町に氾濫したが、1961年11月には特にひどい洪水が発生し、セビリアは災害地域として宣言された。
現代1992年に開催されたセビリア万博
1975年11月20日にフランシスコ・フランコが死去すると、1979年4月3日には民主化後初の地方自治体選挙が行われ、アンダルシア人党(英語版)(PA)のルイス・ウルニュエラが民主化後初のセビリア市長に選出された。1982年11月5日にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がセビリアを訪れ、50万人を超える人が集まった見本市会場でミサを執り行った。1993年6月13日、ヨハネ・パウロ2世は第45回聖体大会のために再びセビリアを訪れている。
1992年にはクリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸の発見500周年に合わせて、6か月間にわたってセビリア万博が開催された。万博に合わせてインフラの整備が行われており、1991年には高速鉄道AVEがセビリア=マドリード間で開業し、市街地の周囲を円形に結ぶSE-30環状道路が完成し、ラファエル・モネオが設計したセビリア空港の新ターミナルが供用開始され、サンティアゴ・カラトラバが設計したアラミロ橋がグアダルキビール川に架けられた。2002年6月には欧州理事会(欧州サミット)の会場となり、移民政策・欧州連合(EU)拡大・閣僚理事会改革などが協議された[19]。
セビリアはスペイン社会労働党(PSOE)の勢力が強い。