セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム
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プルタルコスによれば、オピミウスによって追い込まれたグラックスは、自分の奴隷に命じて殺させたとも、両者とも捕らえられ殺されたとも伝わり、他にもマルクス・フルウィウス・フラックスや3000人の市民が殺されたという[3]

紀元前100年、支持者を扇動して政敵を殺害した護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスとその支持者に対して発令され、サトゥルニヌス一派は鎮圧に当たった執政官ガイウス・マリウスに降伏したが、降伏を受け入れたマリウスの意向を無視した暴徒の手で殺害された。なお、サトゥルニヌスを殺害したガイウス・ラビリウス(ドイツ語版)は、紀元前65年ガイウス・ユリウス・カエサルと、犠牲になった支持者の甥である護民官ティトゥス・ラビエヌスからサトゥルニヌス殺害の罪で告発されて死刑判決が濃厚となったが、法務官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ケレルが一計を案じて裁判を中止させたために告発は立ち消えとなった。この裁判でカエサルとラビエヌスが問題にしたのは、元老院最終決議の有効性ではなく決議が適切に運用されたかという点であり、降伏して無力化された対象に対しても暴力の行使が正当化されるのかという点が争点だったとされる[4]

紀元前77年ルキウス・コルネリウス・スッラの死後にローマに対して反乱を起こしたマルクス・アエミリウス・レピドゥスに対して発令された。

紀元前63年ルキウス・セルギウス・カティリナの支持勢力による国家転覆の陰謀が明らかになる。元老院最終決議が発令され、執政官マルクス・トゥッリウス・キケロに秩序回復の全権が委ねられた。キケロのカティリナ事件への対応はローマ市民に支持され、キケロは「国家の父」の称号を得た。しかし、紀元前58年プブリウス・クロディウス・プルケルが護民官に就任すると、クロディウスから裁判を経ずに市民を処刑したことについて糾弾を受け、キケロはローマを追放された[5](後に元老院の決議を受けローマに帰還する)。

紀元前49年ローマ内戦の開戦前にカエサルに対して発令され、それまで元老院の決定に拒否権で抵抗を続けてきたカエサル派の護民官マルクス・アントニウスとクィントゥス・カッシウス・ロンギヌス(英語版)はローマから追放された。カエサルは決議が発令の条件を満たしておらず、それによって不可侵であるはずの護民官の拒否権が侵害されたと麾下の将兵に訴えて自身の軍事行動を正当化した[6]。また、カエサルがローマを制圧した後も紀元前48年のマルクス・カエリウス・ルフス(英語版)とティトゥス・アンニウス・ミロ(英語版)が、翌紀元前47年プブリウス・コルネリウス・ドラベッラがそれぞれ引き起こした騒乱を鎮圧する際に発令されており、カエサルが元老院最終決議の有効性を認めていた事を示している[7]

また、紀元前43年ムティナの戦いでアントニウスに対して発令されたと主張する歴史家も存在する[8]
関連項目

ダムナティオ・メモリアエ

プロスクリプティオ

朝敵

脚注^ リウィウス, p.11 脚注6.
^ リウィウス, p.11 脚注7.
^ プルタルコス『対比列伝』ガイウス・グラックス、17-18
^ ゴールズワーシー上, p. 177-180.
^ リウィウス『ペリオカエ』103
^ カエサル, p. 21-23.
^ ゴールズワーシー下, p. 263-267.
^ サイム, p. 260.

参考文献

ティトゥス・リウィウス 著、岩谷智 訳『ローマ建国以来の歴史 2』京都大学学術出版会、2016年。 

カエサル 著、國原吉之助 訳『内乱記講談社学術文庫、1996年。 

ロナルド・サイム 著、逸身喜一郎ほか 訳『ローマ革命 共和政の崩壊とアウグストゥスの新体制 下』岩波書店、2013年。 

エイドリアン・ゴールズワーシー 著、宮坂渉 訳『カエサル(上)』白水社、2012年。 

エイドリアン・ゴールズワーシー 著、宮坂渉 訳『カエサル 下』白水社、2012年。 


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