エリザベス女王在位25周年祝典の日に、テムズ川のボートでゲリラライヴを行い、英国国歌と同名の曲「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を演奏し逮捕された。このプロモーションの成果は上々で、全英シングルチャートで最高2位(NMEチャートでは最高1位)を記録したが、ジョニー・ロットンとポール・クックが右翼に襲われて重傷を負う事件が発生し[注 4]、バンド活動はしばらく停滞した。
絶頂期と解散ノルウェー公演 (1977年)
1977年10月、唯一のオリジナル・ファースト・アルバム『勝手にしやがれ!!』を発売。このアルバムはロキシー・ミュージック、ピンク・フロイド、ポール・マッカートニーなどを手掛けた音楽プロデューサー、クリス・トーマスによってプロデュースされた[注 5]。
マルコムはアルバムの販売権をヴァージン・レコードに独占させず、フランスの会社に1曲多い盤の製作を許可するなどの揺さぶりをかけた。アメリカでは大手のワーナー・ブラザース・レコード、日本では当時ヴァージンと提携していた日本コロムビアから発売された[注 6]。
1978年、ワーナーの企画により初のアメリカツアーを決行。保守的な傾向の強い南部からツアーを始めたが、サンフランシスコ、ウインターランド公演後に、もはや嫌気が差していたジョニー・ロットンがバンドを脱退。急遽、アメリカツアーは中止され、実質上バンドの終焉となった。 脱退後のジョニー・ロットンは本名のジョン・ライドンに戻し、自ら率いるニュー・ウェイヴ、ポストパンク・バンド「パブリック・イメージ・リミテッド」を結成した。 スティーヴ・ジョーンズとポール・クックは、イギリスの大列車強盗犯人ロナルド・ビッグズやマルチン・ボルマン[注 7]の偽物とコラボレーションを行うなど、おふざけ半分でピストルズを延命させられたのち、活動は消滅した。 マルコムは、嫌がるシド・ヴィシャスにフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の替え歌をレコーディングさせ、レコード発売も行っている。その後シドはアメリカツアーを行うが、宿泊していたホテルで恋人であったナンシー・スパンゲンを刺殺した容疑をかけられたまま、麻薬の大量摂取が原因で他界。結果的に「マイ・ウェイ」はシドの代表曲となった[4]。 これらの時期収録の音源が、マルコム・マクラーレン主導で製作したピストルズドキュメンタリー映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル (映画)』のサウンドトラック盤(『ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル』)に使用された。 1996年、「俺達には共通の目的ができた、それは金だ!」とうそぶき、オリジナル・メンバーにより再結成。6月よりワールド・ツアーを決行し、翌7月にはライヴ・アルバム『勝手に来やがれ』を発売。実現した初来日公演は、異例の1か月間18公演を行っている。 2001年、かつてマルコム・マクラーレン主導で製作したドキュメンタリー映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』は、真実の内容とは掛け離れているとして、旧メンバー側が製作したピストルズドキュメンタリー映画『ノー・フューチャー』を公開した。 2002年 - 2003年、夏に2回目の再結成。イギリスとアメリカで2公演を行い、翌年にもアメリカ・ツアーを実施。再結成 UKブリクストン公演 (2007年11月) 2006年、ロックの殿堂入りを果たす。しかし2月24日の朝、以前からロックの殿堂を皮肉っていたジョニー・ロットンを筆頭に彼らは、自身の公式サイトに直筆メッセージを掲載。その内容は、「セックス・ピストルズを除けば、ロックンロールもその殿堂入りも小便のシミだ。」と冒頭から罵倒。また1人あたり2万5,000ドル(約250万円)もの参加費用に関しても論難し、最後には「このクソみてえな系図に組み込まれねえのが、本当のセックス・ピストルズってもんだからさ」と締めくくった。これに対して主宰者は、怒るどころか、「彼らは非凡なパンク・スター。これこそがロックンロール」とさえコメントしている[5][6]。
解散後
再結成