2006年『ロックの殿堂』入り。ローリング・ストーン誌選出「歴史上、最も偉大な100組のアーティスト」第60位。
来歴
結成マネージャーを務めた晩年のマルコム・マクラーレン (2009年)
1970年代半ばのロック・シーンは、ハードロックとプログレッシブ・ロックが二大主流で、超絶技巧のギターテクニックや、初期の高価なシンセサイザーやスタジオ録音技術を駆使する「スーパー・バンド」と、ロックファンの間には溝が生まれつつあった[注 1]。
当時、ロンドンのキングス・ロードで『SEX』というブティックを経営していたマルコム・マクラーレンは[注 2]、店に出入りしていた不良少年のスティーヴ・ジョーンズとポール・クックが結成したアマチュアバンドに目をつけた。それに積極的に介入し、当時『SEX』の店員だったグレン・マトロックと、オーディションで選んだジョニー・ロットンを加入させ、1975年11月にバンドの形を整えさせた。彼らは貸しスタジオで練習を重ね、セックス・ピストルズのバンド名でライブデビューした。
パンク・ロックの勃興メンバーおよびパンク仲間
シンプルなロックンロール、反体制的な歌詞、斬新なファッション、メディアを意識したスキャンダルの濫発によりすぐに注目された。
1976年、大手レーベルのEMIと契約し、シングル「アナーキー・イン・ザ・U.K./アイ・ワナ・ビー・ミー」をリリースするが、出演したテレビで放送禁止用語を連発したことが問題となって契約を破棄され、結果としてバンドは巨額の違約金を手に入れた。その後、A&Mレコードと契約したが、シングル「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン/分かってたまるか」の発売直前に破棄され、またしてもバンドは巨額の違約金を手に入れた。最終的にヴァージン・レコードと契約する。左・新加入のシド(B) 1977年
1977年にベーシストのグレン・マトロックが、ジョニー・ロットンとの不和などの理由で脱退。スティーヴ・ジョーンズはインタビューで、マトロックの脱退について、「彼は優れた作曲家だったけれど、ビートルズの影響が大きすぎた。彼はいつも足を洗っていて、ピストルズには見えなかった」と語っている[3]。 後継ベーシストとして、古くからロットンと親しかったシド・ヴィシャスが採用された[注 3]。このシドの加入で、ピストルズはよりスター性のあるバンドとなった。しかし、作曲面における功績が大きかったマトロックの脱退は、バンドの将来に暗い影を落とすことになった。
エリザベス女王在位25周年祝典の日に、テムズ川のボートでゲリラライヴを行い、英国国歌と同名の曲「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を演奏し逮捕された。このプロモーションの成果は上々で、全英シングルチャートで最高2位(NMEチャートでは最高1位)を記録したが、ジョニー・ロットンとポール・クックが右翼に襲われて重傷を負う事件が発生し[注 4]、バンド活動はしばらく停滞した。
絶頂期と解散ノルウェー公演 (1977年)
1977年10月、唯一のオリジナル・ファースト・アルバム『勝手にしやがれ!!』を発売。このアルバムはロキシー・ミュージック、ピンク・フロイド、ポール・マッカートニーなどを手掛けた音楽プロデューサー、クリス・トーマスによってプロデュースされた[注 5]。
マルコムはアルバムの販売権をヴァージン・レコードに独占させず、フランスの会社に1曲多い盤の製作を許可するなどの揺さぶりをかけた。アメリカでは大手のワーナー・ブラザース・レコード、日本では当時ヴァージンと提携していた日本コロムビアから発売された[注 6]。