マルコムは、嫌がるシド・ヴィシャスにフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の替え歌をレコーディングさせ、レコード発売も行っている。その後シドはアメリカツアーを行うが、宿泊していたホテルで恋人であったナンシー・スパンゲンを刺殺した容疑をかけられたまま、麻薬の大量摂取が原因で他界。結果的に「マイ・ウェイ」はシドの代表曲となった[4]。
これらの時期収録の音源が、マルコム・マクラーレン主導で製作したピストルズドキュメンタリー映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル (映画)』のサウンドトラック盤(『ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル』)に使用された。 1996年、「俺達には共通の目的ができた、それは金だ!」とうそぶき、オリジナル・メンバーにより再結成。6月よりワールド・ツアーを決行し、翌7月にはライヴ・アルバム『勝手に来やがれ』を発売。実現した初来日公演は、異例の1か月間18公演を行っている。 2001年、かつてマルコム・マクラーレン主導で製作したドキュメンタリー映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』は、真実の内容とは掛け離れているとして、旧メンバー側が製作したピストルズドキュメンタリー映画『ノー・フューチャー』を公開した。 2002年 - 2003年、夏に2回目の再結成。イギリスとアメリカで2公演を行い、翌年にもアメリカ・ツアーを実施。再結成 UKブリクストン公演 (2007年11月) 2006年、ロックの殿堂入りを果たす。しかし2月24日の朝、以前からロックの殿堂を皮肉っていたジョニー・ロットンを筆頭に彼らは、自身の公式サイトに直筆メッセージを掲載。その内容は、「セックス・ピストルズを除けば、ロックンロールもその殿堂入りも小便のシミだ。」と冒頭から罵倒。また1人あたり2万5,000ドル(約250万円)もの参加費用に関しても論難し、最後には「このクソみてえな系図に組み込まれねえのが、本当のセックス・ピストルズってもんだからさ」と締めくくった。これに対して主宰者は、怒るどころか、「彼らは非凡なパンク・スター。これこそがロックンロール」とさえコメントしている[5][6]。ロックの殿堂入りを蹴ったという事案は史上初である。 2007年、11月に4回目の再結成を行い、ワールド・ツアーを展開[7]。 2008年、日本のロックフェス『サマーソニック』に出演。以降、年内で再び活動停止した。 当時としては斬新且つシンプルなギターコード、イギリス政府・イギリス王室・EMIのような体制や権威をこき下ろす歌詞、短い髪をツンツンに立てたり破れた服を安全ピンで留めるといった斬新なファッション、メディアでのインタビューで「shit」「fuck」「cunt」を連発するというスキャンダルにより注目された。 ボーカルのジョニー・ロットンは「アナーキー・イン・ザ・U.K.」で、「俺は反キリスト者でアナーキスト」と叫び、破壊思想を流布するとしてMI5から監視された[注 8]。元MI5部員が後に証言したところによると、「MI5のテロリストやスパイの監視を行う部署に『1977年コンテンポラリーミュージック破壊活動分子』というタイトルの付いたファイル群があり、その膨大な書類はすべてピストルズに関するものだった」という。しかし、ピストルズは左翼のみに支持されたわけではなく、「ボディーズ」はイギリスの保守ソングのランキング10位内にランクインしている。 安全ピンや、髪をツンツンに立てるといったファッションは、元々リチャード・ヘル(テレヴィジョンやハートブレイカーズの創設メンバー)が行っていたものをマルコム・マクラーレンが採り入れたと言われているが、ジョン・ライドンの自伝ではピストルズ加入以前から短髪を緑色に染めたり、父親に買ってもらったスーツをカットして安全ピンでつなぐなどしていたと記述されている[注 9]。 契約トラブル劇は、レーベルに所属するプログレッシブ・ロックのミュージシャンたちの強硬な反対も大きく影響していたといわれる。最終的に契約したヴァージンでも、所属していたマイク・オールドフィールドが最後まで契約に反対していたという。
再結成
特徴
歌詞
ファッション
レコード契約
歴代メンバー
ジョニー・ロットン (Johnny Rotten) - ボーカル (1975年-1978年、1996年-2008年)
スティーヴ・ジョーンズ (Steve Jones) - ギター/(ベース:スタジオ録音のみ) (1975年-1978年、1996年-2008年)
ポール・クック (Paul Cook) - ドラムス (1975年-1978年、1996年-2008年)
Size:44 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef