セウタ
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また、人口の40 - 50%がモロッコ出身者であるため、アラビア語モロッコ方言も話されている[4][5]
地理セウタの地図

スペイン軍が駐留するモンテ・アチョ(英語版) の周辺に町が広がっている。沖合いの小島、サンタ・カタリーナ島(英語版、スペイン語版)も含まれている。ギリシャ神話に登場するヘラクレスの柱は、モンテ・アチョか、セウタから西数kmのモロッコ領のジュベル・ミュザ(英語版)のことではないかと考えられている。地中海性気候である。三方を海に囲まれているため夏と冬が温暖で、降雨は不定期である。

アフリカ大陸の旧スペイン領モロッコの一部にあたるため、メリリャ共々、スペインの植民地(海外領土)と言われることがあるが、スペイン政府は本土と同等の領土と見做している。

なお、1954年に独立したモロッコは、メリリャなどと共に領有を主張しているが、スペイン側は固有の領土として応じていない。
由来

セウタの名は、7人兄弟(の城)(七つの丘のこと)を意味すセプテム・フラトレス(ラテン語: Septem Fratres) から派生したとされる。
歴史

セウタは海上交通また軍事上の要衝として、重視されてきた。紀元前7世紀にはフェニキア人が定住地を築き、アビラと呼んだ。その後この地を占領したギリシャ人は、Hepta Adelphoiと呼んだ。紀元前319年にはカルタゴが支配下においた。紀元前201年、第二次ポエニ戦争でカルタゴが降伏すると、街はヌミディアへ割譲された。紀元前47年にはマウレタニア領となった。紀元後40年カリグラ帝がマウレタニアを併合し、ローマ属州マウレタニア・ティンギタナの都市になった。このときの名はセプティムという。5世紀半ばにはローマ人の手を離れヴァンダル人の支配に帰したが、ユスティニアヌス1世時代に将軍ベリサリウスが占領し、東ローマ帝国領となった。水浴するフロリンダ・ラ=カヴァ
彼女が西ゴート王に凌辱されたことがイスラム勢力のスペイン侵攻に繋がった

710年にイスラム系のウマイヤ朝が侵攻すると、当時の西ゴート王国のセウタ伯ユリアヌス(英語版)は寝返り、ウマイヤ朝軍に対してスペイン侵略を説いた。アラブ側史料によれば、その背景としてユリアヌスの娘であるフロリンダ・ラ=カヴァ(スペイン語版)が西ゴート王ロデリックに凌辱されたことによる怨恨があると言われている。セウタはまもなくイスラム軍のイベリア半島攻撃の拠点となった。ユリアヌスの死後、セウタの支配はイスラム側に帰した。

788年、モロッコイドリース朝がセウタを占領した。931年、後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン3世がイベリア半島にあったカリフ領を征服した。その後、グラナダ王国フェズ王国の係争地となり、カスティーリャ王国アラゴン王国がセウタ攻略に介入することがたびたびあった。

1415年エンリケ航海王子がセウタを奪取し、セウタはポルトガル王国領となった。この攻撃の目的は、この地域一帯からイスラム勢力を駆逐し、キリスト教を振興することにあった。ポルトガル領だった名残は、セウタの紋章がポルトガル王国の国章に酷似している点に表れている。

1580年、ポルトガルのアヴィス王朝が断絶した後、アブスブルゴ朝スペインフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、セウタはスペイン領となった。1668年1月1日のリスボン条約(英語版)でポルトガルの独立が再び認められた際、セウタは正式にポルトガルからスペインに割譲された。

18世紀から、ジブラルタルを攻略したイギリス海軍が海から、陸からはアラウィー朝がセウタを脅かした。18世紀には4度、モロッコによって包囲されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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