セウォル号沈没事故
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前の運航会社が同じマルエーフェリーであること、建造した日本の造船所が同じであること、事故形態が似ていることから、2009年11月に日本の三重県で発生した「ありあけ」座礁横転事故と比較された[7][8]。韓国では2013年まで10代の死亡原因第1位は自殺だったが、この事故により多数の高校生が死亡したため2014年の10代死亡原因第1位は運輸事故となった[9]
経緯

セウォル
仁川港に停泊するセウォル(2014年3月)
船歴
船籍 日本 (1994 - 2012)
韓国 (2013 - 2014)
所有マルエーフェリー (1994 - 2012)
清海鎮海運 (2013 - 2014)
母港仁川港
受注林兼造船 長崎造船所
竣工1994年6月
その後2014年4月16日に沈没
性能諸元
総トン数6,586トン (1994 - 2012)
6,825トン (2013 - 2014)
全長146.61 m
全幅22.2 m
全高14.0 m
吃水6.26 m
機関SEMT ピルスティク 12PC2-6V
ディーゼル機関V型12気筒エンジン×2
15,974hp (11,912 kW)
推進器混成2軸、固定ピッチスクリュー
速力21.5ノット (39.8km/h)
乗員36人
最大搭載量
フェリーなみのうえ
客数804人
乗用車90台
トラック60台
セウォル
客数960人
乗用車88台
トラック60台

(記事の時刻は日本標準時、および韓国標準時共に同じであるため「UTC+9」とする)
2014年
4月15日


午後9時頃 - 仁川港から済州島へ向けて出港。定刻の午後6時半から、濃霧による視程低下のため約2時間遅れ。

4月16日(事故発生 1日目)


8時49分37秒 - 56秒 - セウォルは珍島の西方、東巨次島などからなる巨次群島と孟骨島などからなる孟骨群島との間の孟骨水道を、南東に向かって進み、屏風島観梅島の間あたりにさしかかっていた。セウォルは突然右(南西方向)に45度旋回して傾き始める[10][11][12]

8時52分頃 - セウォルはさらに北に向けて旋回(約5ノットに減速)[10]。急激な旋回で船体は横倒しになり、船首を西に向けたまま、北の方向へ流される[11]

乗っていた男子生徒によると「『ドン』という音が聞こえ、船が傾いた」エンジン室にいた船員「船の前部が衝撃を受けた」。別の乗客「船が90度近くに傾くと、船体の側面から一気に水が入ってきた」[13]


8時52分頃 - 乗客の少年が携帯電話を使って消防に通報(最初の通報)[12][14]

8時54分頃 - 消防への通報が海洋警察に転送される[14]

8時55分頃 - セウォルが遭難信号を済州島に発信(珍島の管制センターに伝わる)[12]

8時55分頃 - セウォルが済州島の海上交通管制センターに対して海洋警察に連絡を取るよう要請[12]

8時56分頃 - 済州島の海上交通管制センターがセウォルに対して位置を確認[12]

8時58分頃 - セウォルが遭難信号を発信、海洋警察が受信[5]

8時55分頃 - 済州島の海上交通管制センターがセウォルに、乗客に救命胴衣を着けさせ避難の準備に入るよう促す[12]

9時17分頃 - セウォルが海上交通管制センターに救助を要請[15]

9時24分頃 - 海上交通管制センターが船長に対して乗客に対する脱出の最終決断を促す[15]

10時10分頃 - 「沈没が迫っている。乗客は海に飛び降りろ」と船内放送[13]

10時17分頃 - 船内からのスマートフォンによるメッセージ発信が途切れる。船体は船首底部を除き沈没[16]

11時過ぎ - 京畿道教育庁が船に乗っていた高校生の保護者たちに「壇園高校の生徒を全員救助」というメールを一斉に送付するも、同日午後になり救助された人数に誤りがあったことが判明、直後に安全行政部と海上警察が行方不明者の数を修正して発表[6]

11時24分頃 - 海軍の海難救助部隊 (Ship Salvage Unit: SSU) 及びUDT/SEAL陸軍特戦司令部の潜水要員が調査と救助作業に投入される[17]

午後 - 海軍駆逐艦大祚栄」の乗組員が貨物昇降の作業中に頭部を負傷し意識不明の状態で済州島の病院に運ばれるが、19日に死亡した[18]

4月17日(事故発生 2日目)


午後 - 民間のダイバー3人が行方不明者を捜索中、波と風に流され行方不明になるが、20分後に釣り船に発見され、救助された[19]

20時40分頃 - 悪天候により中断していた水中捜索を再開。同時に、海洋警察が船内進入のために無人ロボットを投入[20]

4月18日(事故発生 3日目)


1時頃 - 船体を引き揚げるためにクレーン船3台を投入することを決定するも、船体が揺れてエアポケットに海水が浸入する可能性があるため難航[21]

午後 - 海面より姿を見せていた船首底部が自重により完全に水没[22]

事故発生 4日目以降


4月19日 - 16日の救助活動中に頭を負傷し、意識不明となっていた韓国海軍兵士1人が死亡[23]

4月20日 - 珍島海上交通管制センターとの交信記録が公開される。死者58名[24]

4月21日未明 - 遠隔操作無人探査機1台がアメリカ企業より貸与されて捜索に利用開始される。死者64名[25]。清海鎮海運の関係者44名に対し出国禁止命令を出し、救助された乗組員15名全員に事情聴取が開始される[26]

事故発生 1週間目以降


4月22日 - 死者が100名を上回る[27]

4月23日 - 当初、修学旅行の高校生の多くが集まっていたと考えられていた3階食堂への進入に成功するも、生存者確認できず。死者150名[28]


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