セイロン沖海戦は、太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)4月上旬に、インド洋のセイロン島海域で行われた日本海軍とイギリス軍の海戦。南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)が発令したセイロン島方面機動作戦(3月9日)とベンガル湾機動作戦(3月14日)により、南方部隊指揮下の南雲機動部隊(指揮官南雲忠一第一航空艦隊司令長官、正規空母5隻基幹)と馬来部隊(指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官、巡洋艦6、軽空母1、駆逐艦4)は、4月初旬よりインド洋で機動作戦を実施した[3][4]。南雲機動部隊は4月5日にセイロン島のコロンボを、9日にトリンコマリーを空襲し、大きな戦果をあげた[4]。また馬来部隊は4月6日にベンガル湾で商船20隻以上を撃沈する戦果をあげた[4]。
イギリス海軍は暗号解読により東洋艦隊(司令長官ジェームズ・サマヴィル中将)をもって邀撃したが、艦隊主力同士が交戦する機会はなかった[4]。東洋艦隊本隊とわかれて行動していた重巡洋艦2隻(5日)、空母「ハーミーズ」と駆逐艦1隻ほか(9日)が、南雲機動部隊の攻撃により撃沈された[4]。イギリス東洋艦隊はセイロン島とモルディブ諸島の拠点から、アフリカ東岸のキリンディニ港とマダガスカルまで後退した(インド洋の戦い)。 1942年(昭和17年)3月9日の時点で日本軍はジャワ島を攻略し(蘭印作戦)[5]、南方資源地帯占領は想定より早く進行、第一段作戦(南方作戦)はバターン半島攻略とビルマ方面をのぞき最終段階を迎えていた。しかし続く第二段作戦は、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と[6]、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標が決まってなかった[7][8]。しかし、日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍が進出することによってイギリスの後方が撹乱されることを期待、海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議の場を設けていた[9][10]。 連合艦隊司令部では2月20日から23日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行い、セイロン島の占領・英国東洋艦隊撃滅の計画をたてる[11][12]。しかし、セイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や、米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は一旦後退した[12]。 当時、ビルマ攻略を目指す陸軍第十五軍は首都ラングーンまで進出しており[13][14]、今後、全ビルマ制圧作戦を進めるには海路からの軍需品輸送が不可欠であった[15][16]。しかし、インド洋にあるセイロン島にはイギリス軍の二大基地、商港コロンボと軍港トリンコマリーがあり、日本の海路からの輸送をイギリス艦隊が阻止してくることが予想できた。そこで海上交通保護のため北部スマトラ島とアンダマン諸島を占領して航空基地を建設するとともに[17]、セイロン島の二大拠点とイギリス東洋艦隊に打撃を与えておく必要が生じた[16]。 日本側は、インド洋に展開するイギリス海軍は、空母2隻・戦艦2隻・重巡洋艦3隻をはじめ、軽巡と駆逐艦も行動しており[18]、沿岸の基地には約300機の航空機が配備されていると考えていた[19][20]。 3月9日、連合艦隊(司令長官山本五十六大将)は南方部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官)に対し、セイロン島方面機動作戦の実施を命じた[5][21](聯合艦隊電令作第86号)[22]。
背景
日本