セイレーン
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ヴィクトリア国立美術館所蔵。

セイレーンは、ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蜜蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いた船員は初めて耳栓を外しオデュッセウスの縄を解いた[27]。ホメーロスはセイレーンのその後を語らないが、ヒュギーヌスによれば、セイレーンが歌を聞かせて生き残った人間が現れた時にはセイレーンは死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて自殺した[22]。死体は岩となり、岩礁の一部になったという。

アルゴナウティカ』にも登場する。イアーソーンアルゴナウタイがセイレーンの岩礁に近づくと、乗組員オルペウスリラをかき鳴らして歌を打ち消すことができた。しかしブーテースのみは歌に惹かれて海に飛び込み泳ぎ去ってしまった[28]
中世以降の変化

中世以降は半人半鳥でなく、人魚のような半人半魚の怪物として記述されている[29]。文献で確認できる鳥から魚への変化の最初の例は7世紀から8世紀頃の『怪物の書』と言われている。この変化が起きた理由として挙げられているものに、言語上の類似による誤解がある。ギリシア語では羽根は同じ πτερ?γιον であり、またラテン語も羽根 pennis と鱗 pinnis はよく似ている。そこで下半身が羽根に覆われた姿から鱗に覆われた姿に変化したのではないかと考えられる[30][要検証ノート]。また北方の魚の尾を持つ妖精や怪物を呼ぶ際にセイレーンの語が当てられたという説もある[31]。あるいは古代において海岸の陸地を目印に航海していたのに対し、中世に羅針盤が発明されて沖合を遠くまで航海できるようになったことから、セイレーンのイメージが海岸の岩場の鳥から大海の魚へと変化したためではないかと考えられている[32]。この頃には、海でセイレーンに会ったという記述が旅行記に記されるようになる[29]

ゲーテの『ファウスト』などに登場し、怪物としての性格が強まった。後世には、人魚や水の精などとも表現されるようになり、西洋絵画においてはとりわけ世紀末芸術で好まれる画題となった。

セイレーンを描いた図像には、二又に分かれた鰭を備えた魚の下半身となっているものがしばしばみられる。20世紀のフランスの美術史家ユルギス・バルトルシャイティスによれば、セイレーンのこうした図像の構図は古代のアジアで既にみられており、アジア起源の構図がヨーロッパに伝えられてさまざまな図像で用いられたという[4]
西洋絵画

西洋絵画ではセイレーンはしばしば描かれてきたが、特にラファエル前派以降のイギリスの画家たちが男たちを誘惑する甘美なセイレーンの姿を描いている。フランス象徴主義の画家ギュスターヴ・モローも『セイレーンたち』(1882年)、『詩人とセイレーン』(1893年)と言った作品を描いたが、ギュスターヴ=アドルフ・モッサは『飽食のセイレーン』(1905年)でむしろ人を殺す残酷な一面を描いている。そのほか、パウル・クレーの『セイレーンの卵』(1937年)、ポール・デルヴォーの『セイレーンたちの村』(1942年)、『偉大なるセイレーンたち』(1947年)、パブロ・ピカソの『オデュッセウスとセイレーンたち』(1947年)といった作品がある。
ギャラリー

エドワード・バーン=ジョーンズ 『セイレーン』 1875年 南アフリカ国立美術館(英語版)所蔵

フレデリック・レイトン 『漁夫とセイレーン』 1856年-1858年 個人所蔵

エドワード・ポインター 『セイレーン』 1864年頃 個人所蔵

シャルル・ランデル(英語版) 『セイレーン』 1879年 ラッセルコーツ美術館&博物館(英語版)所蔵

ギュスターヴ・モロー 『オデュッセウスとセイレーンたち』 1885年頃 ギュスターヴ・モロー美術館所蔵

ギュスターヴ・モロー 『詩人とセイレーン』 1893年 個人所蔵

フェリックス・ジアン『セイレーンたちの呼び声』 19世紀 個人所蔵

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス作『セイレーン』 1900年 個人所蔵


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