ズームイン!!朝!
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『ズームイン』開始前の徳光はバラエティやスポーツ中継を通じて中堅アナウンサーとして視聴者から一定の支持を得ていたものの、奔放かつ特殊な勤務態度と報道に不向き[注 8]なのが災いし社内の評価は芳しいものではなかった。徳光の起用を決めた齋藤太朗によると、「プロレスやバラエティで活躍している奴を真ん中に置いて朝の(情報)番組で使って、何を考えているんだ」と上層部から猛反対されたという。しかし斎藤は徳光の才能を高く買っており、「『ズームイン』の総合司会には渡された原稿を読むだけでなく、自分の言葉、自分の感性で喋ってもらいたい。そう考えたら(当時の日本テレビアナウンス部の中で適任なのは)徳光しかいないじゃないか」と押し切った[9]。徳光は「もしこの番組が一年以内にコケたら、自分のアナウンサー生命自体が終わる」として相当悩んだものの、当時日テレでもエース格とされた仁科・齋藤の2人に口説かれ、最終的に司会の話を承諾[10]。結果徳光は番組の成功と共に朝の顔としてお茶の間に定着。アナウンサーとしても徐々に再評価され、『ズームイン』以外の番組にも多数起用されるなど、活躍の場を広げていくことになる。

前番組である『おはよう!-』からジャーナリストの秋元秀雄がコメンテーターとして続投。ニュースコーナーでは秋元が中心になって仕切っていた。

1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[11]

1980年10月21日、長嶋茂雄が巨人軍監督を「解任」される。長嶋ファンの徳光はこの解任劇に激怒し翌日の10月22日、関係者への怒りを露わにしながら番組を開始した。巨人球団や川上哲治を容赦なく批判し、読売新聞報知新聞スポーツ報知)の購読をやめると表明し、怒りの番組進行の締めには「ジャイアンツは、不滅から破滅への道を辿る」と発言した。この一連の抗議は放送開始から26分に亘って行われた。

1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の『ゆく年くる年』は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで『ゆく年くる年』を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ[12]、そのために渡辺謙太郎(当時TBSアナウンサー)、露木茂(当時フジテレビアナウンサー)、溝口泰男(当時テレビ朝日専属キャスター)、金子勝彦(当時東京12チャンネルアナウンサー)といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。この年は当番組と同様にマイスタからの生放送となり、各地からの中継リポートも当番組の各局キャスターが担当。中継を呼び出すときの音も当番組の効果音が使われた。

ネット局関連

開始当時のネット局は日本テレビ、札幌テレビ青森放送テレビ岩手ミヤギテレビ福島中央テレビ山梨放送福井放送中京テレビよみうりテレビ日本海テレビ鳥取島根)、広島テレビ山口放送西日本放送香川)、高知放送福岡放送の16局ネット。

このうち、福井放送では1984年3月まで『ポーラテレビ小説』を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた。

秋田放送は本番組スタートと同じ日に本番組ではなくTBSの「おはよう700」のネットを開始。

南海放送はすでにネットのおはよう700を引き続きネット。

1979年4月2日から、北日本放送でのネットが開始された。開始当初は福井放送と同様『ポーラテレビ小説』を放送していたため、8時10分飛び降りとなっていた他、ローカル番組『ズームイン!!朝! ? おはようKNBです』に内包する形をとり、番組後半(7:50すぎ)はローカル編成を組んでいだ[13]。このため番組欄では両番組名が併記となったほか、ローカル部分がのちにステレオ放送化(本番組のパートはモノステレオ放送)されたため、新聞等の番組欄のタイトルにはステレオ放送のマークがついた。この体制は1992年3月頃まで続いた。8月6日も同じ編成であったことから広島平和祈念式典はネットされなかった。また、西日本放送の岡山・香川相互乗り入れにより岡山県での放送を開始(17局ネット)。

同年7月2日(実質は6月25日のサービス放送から)、前日に開局した静岡第一テレビにて静岡県での放送を開始。それまで日本テレビとテレビ朝日とのクロスネット局であった静岡県民放送(静岡けんみんテレビ)は前番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はネットしていたものの、終了後はテレビ朝日系列の『オリンピックニュース』とアニメの再放送枠に充てていた(18局ネット)。

同年10月1日、当時日本テレビ(NNSは非加盟) ? フジテレビのクロスネット局であったテレビ長崎、当時日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日とのトリプルクロスネット局であったテレビ大分がネットを開始した[14]。ただし、後者は開始当初はフジテレビの『ひらけ!ポンキッキ』も放送していたため、1980年3月31日までは8時飛び降りとなっていた(20局ネット)。

1980年10月1日、この日に開局したテレビ信州にて長野県での放送を開始。それ以前は長野県に日本テレビ系列局が無かった(21局ネット)。

1981年4月1日(実質は3月25日のサービス放送から)、この日に開局したテレビ新潟にて新潟県での放送を開始[15]


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