ズームイン!!朝!
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

このことを当時日本テレビ社長の小林與三次に伺いを立てたところ「人の真似は良くない」とされた決裁により「全国的に」の部分だけが取れて『ズームイン!!朝!』(後身『ズームイン!!SUPER』も含め、一部の記事を除き以下『ズームイン!!』と記す)に落ち着いた[6][注 6][7]

1977年にスタートした45分のニュース番組『NNNおはよう!ニュースワイド』はそれまでの『NNN朝のニュース』で伝えられた全国ニュースに加え、特集や地方の話題などを加えて放送するという、当番組の原型となるような内容で放送されていた。その後、『おはよう!こどもショー』との枠統合、ならびにネット局との調整を経て当番組がスタートする。

後述通り、当番組には報道部が関与しないため、報道部制作のニュース枠として『NNN朝のニュース』を放送再開した。
徳光時代

1979年
3月5日放送開始。初代総合司会は徳光和夫。番組冒頭、徳光は南本館の玄関前に立って、「皆さんおはようございます。徳光和夫、37歳、顔も背丈も標準よりちょっと下回っているようでございますが、そんな私が司会を致します『ズームイン!!朝!』が今からスタートいたします。」と視聴者に挨拶。さらに決め台詞として「1億1865万人の健康に・・・ズームイン!!」。その後はマイスタジオに入ってスタジオの紹介をした。初日最初のニュースは前日に起きた日本中央競馬会騎手福永洋一落馬事故であった[注 7]。3月初頭という改編期前の中途半端な時期に放送を開始したのは「4月開始だと改編期で広報が多忙なので、PRに力を入れてくれない。3月開始なら広報も暇だから、全体がPRに協力してくれる」というディレクター(初代総合演出)の齋藤太朗の思惑がある[8]。なお、同年4月、日本テレビは平日午前から午後まで生放送情報番組強化による改編を行っているが、同じ日に大阪の読売テレビのワイドショー『2時のワイドショー』が立ち上がり、同局もネットを開始している。

ちなみにこの年11月29日の朝の生放送中、福岡放送担当レポーターの安田栗之助が移動たこ焼き屋のマイクロバスのドアノブを触った瞬間、(漏電していた事により)感電して失神するハプニングが発生するも、直後に置き上がりレポートを続行する一幕があった。


開始当初からの企画としては、全国ニュースでは取り上げにくいローカル色の強いニュースを各局のアナウンサーが直接伝える「NSヘッドライン」、各局が地元球団を応援しながら伝える「プロ野球イレコミ情報」、街角からの中継で通りかかった一般の人と英会話を行う「ウィッキーさんのワンポイント英会話」、「朝の詩(ポエム)」などがあり、これらは長寿企画となった。

『ズームイン』開始前の徳光はバラエティやスポーツ中継を通じて中堅アナウンサーとして視聴者から一定の支持を得ていたものの、奔放かつ特殊な勤務態度と報道に不向き[注 8]なのが災いし社内の評価は芳しいものではなかった。徳光の起用を決めた齋藤太朗によると、「プロレスやバラエティで活躍している奴を真ん中に置いて朝の(情報)番組で使って、何を考えているんだ」と上層部から猛反対されたという。しかし斎藤は徳光の才能を高く買っており、「『ズームイン』の総合司会には渡された原稿を読むだけでなく、自分の言葉、自分の感性で喋ってもらいたい。そう考えたら(当時の日本テレビアナウンス部の中で適任なのは)徳光しかいないじゃないか」と押し切った[9]。徳光は「もしこの番組が一年以内にコケたら、自分のアナウンサー生命自体が終わる」として相当悩んだものの、当時日テレでもエース格とされた仁科・齋藤の2人に口説かれ、最終的に司会の話を承諾[10]。結果徳光は番組の成功と共に朝の顔としてお茶の間に定着。アナウンサーとしても徐々に再評価され、『ズームイン』以外の番組にも多数起用されるなど、活躍の場を広げていくことになる。

前番組である『おはよう!-』からジャーナリストの秋元秀雄がコメンテーターとして続投。ニュースコーナーでは秋元が中心になって仕切っていた。

1980年に第17回ギャラクシー賞・選奨を受賞[11]

1980年10月21日、長嶋茂雄が巨人軍監督を「解任」される。長嶋ファンの徳光はこの解任劇に激怒し翌日の10月22日、関係者への怒りを露わにしながら番組を開始した。巨人球団や川上哲治を容赦なく批判し、読売新聞報知新聞スポーツ報知)の購読をやめると表明し、怒りの番組進行の締めには「ジャイアンツは、不滅から破滅への道を辿る」と発言した。この一連の抗議は放送開始から26分に亘って行われた。

1980年12月31日、日本テレビが制作担当であったこの年の『ゆく年くる年』は、本番組のスタッフが実働部隊となり、本番組のシステムで『ゆく年くる年』を制作・放送した。これには本番組並びにキャスターとしての徳光を全国的に売り出す狙いがあったとされ[12]、そのために渡辺謙太郎(当時TBSアナウンサー)、露木茂(当時フジテレビアナウンサー)、溝口泰男(当時テレビ朝日専属キャスター)、金子勝彦(当時東京12チャンネルアナウンサー)といった各局の看板キャスターを集め、中心に徳光を置くといった演出も行われた。この年は当番組と同様にマイスタからの生放送となり、各地からの中継リポートも当番組の各局キャスターが担当。中継を呼び出すときの音も当番組の効果音が使われた。

ネット局関連

開始当時のネット局は日本テレビ、札幌テレビ青森放送テレビ岩手ミヤギテレビ福島中央テレビ山梨放送福井放送中京テレビよみうりテレビ日本海テレビ鳥取島根)、広島テレビ山口放送西日本放送香川)、高知放送福岡放送の16局ネット。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:404 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef