ズームイン!!朝!
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^ 当時は子供向け番組の『おはよう!こどもショー』を放送していたが、同番組は裏番組の『ママとあそぼう!ピンポンパン』と『ひらけ!ポンキッキ』に視聴者が急速に移行したことで視聴率が激減し、その結果キー局民放の視聴率が最下位にまで転落した。
^ 同番組では、毎回150本とも言われたショートコントを86分の放送時間内に繋いで放送していた。
^ 1970年代初頭の谷岡ヤスジの漫画が元の流行語「全国的にアサー!」が元ネタ。
^ 小林社長が番組タイトルの名付け親というのは、初代司会者の徳光和夫は当初から知っていたが、2代目司会者の福留功男は番組開始時も司会在任時もこの事実は知らなかった模様で、番組勇退後に徳光のラジオ番組である『徳光和夫 とくモリ!歌謡サタデー』にゲスト出演して徳光と対談した際に徳光から初めてこの事実を知らされた。
^ 福永と徳光は遠縁の親戚である。
^ 日テレ社内では、「国家予算は、5円」と読んでしまって以降「徳光にはニュース読ますな」と言われるほどであった。徳光和夫#日テレアナウンサー時代も参照。
^ 福留が本番組と『ウルトラクイズ』が重複していた期間の『ウルトラクイズ』は、歴代で相当過酷な旅の行程になっており、本番組と重複した初年度の第12回は北極圏から南極圏まで行き、13回はオセアニアからアメリカ大陸に上陸、福留が本番組と重複していた最後の年の14回はアメリカ大陸上陸からバスツアーでニューヨークまで行くという内容であり、スケールが大きくなっていた為、初期は9月初め前後からロケがスタートして中旬には収録が終わっていたが、この時期は10月まで食い込んだりしていた。
^ 高木と同じく1953年開局入社の徳光寿雄は徳光和夫の実父。
^ 福留の著書『葬らん!』にも同様の記述がある。
^ 徳光が『プラス1』キャスター就任が先に決まり、その為に『ズームイン』から徳光は勇退するという流れで、その後に『ズームイン』は福留と決まった。また、徳光は『ズームイン』勇退と『プラス1』就任は自分の意志で決めた事ではなかった事と、この時期からフリー転身を考え始めた事を後年話しており、実際に『ズームイン』勇退から1年半後の1989年9月に日本テレビを退社しフリーとなった(『プラス1』はフリーの立場で1991年9月まで継続した)。
^ 当時はネット局アナウンサーの持ち回り担当
^ この時、徳光は辛坊のニュース感覚に驚かされたという。
^ 辛坊は1990年まで『ズームイン!!』の大阪キャスターを担当後、『ニューススクランブル』に出演し、コ光と同様に夕方のニュースを担当。その辛坊は後番組の『ズームイン!!SUPER』において開始から9年間コメンテーターという形ではあるもののメイン格で出演していた。
^ 「徳光時代の番組カラーをそのまま引き継ぐ」という意味である。
^ 企画自体は好評だったが、不確実性が高くアクシデントの主要因となっていたため。番組中及びエンディングは継続したが、来訪者にインタビューするなど絡むことはなくなった。
^ TBSでは1991年の10月期改編から期首特番として『オールスター感謝祭』の放送を開始。3月・9月の第4・5土曜日もしくは4月・10月の第1土曜日に『感謝祭』の放送がある場合『ブロードキャスター』は休止となるため、その時期を利用して休みを取っていた。『ズームイン』勇退後に福留はTBSで昼の帯番組である『ベストタイム』の司会を担当していたが、同番組を担当していた時も『ズームイン』担当当時と同じ形の休暇の取り方をしていた。
^ 『ウルトラクイズ』での福留の肩書きは出題・海外リポーターという肩書きで、厳密な総合司会はスタジオパートを担当していた高島忠夫石川牧子だったが福留が当番組と重複になった2年目(1989年、第13回)からはスタジオパートは廃止されたため、実際は福留が総合司会の形だった。また福留から福澤に交代した第15回(1991年)は小倉淳永井美奈子がスタジオパートを担当したが、第16回(1992年)は再びスタジオパートは廃止となり以降番組が中断して、福留が復活した“今世紀最後”(1998年)は伊東四朗松本明子がスタジオパートを担当した。
^ この年の『ウルトラクイズ』に関しては東京ドーム1次予選での第1問までを福留が担当して、第2問以降からを福澤にバトンタッチしている。
^ ただし、「NNNニュースジパング」のコーナーのみ全国完全ネットで放送されていた。
^ 発生当日の17日は冒頭から随時、日本テレビ報道フロアや被災地域の地元局・読売テレビと中継を結びながら地震の第一報を伝えたが、番組放送中の時点ではまだ神戸市内の被害状況の甚大さが明らかになっておらず、一部地震関連以外のニュースも伝えたほか、「プロ野球いれコミ情報」(当時の福岡ダイエーホークスが前年のドラフト1位で獲得した城島健司がゲスト出演)など一部の通常コーナーも放送した。しかし、読売テレビローカルで放送された天気予報やこの日の番組エンディングで映された読売テレビが設置している神戸市内のお天気カメラには遠方で火災が発生している様子が映されていた。
^ なお、読売テレビの中継やローカル枠はこの日、大阪府堺市のある寺から中継を行う予定で、この日の当番キャスターだった三浦隆志や全国ネットの時間には出演しないローカルの天気コーナー担当の名村美千代、この日担当の中継スタッフは中継先の寺へ車で移動中に地震に遭遇している。また、この日当番ではなかった脇浜紀子も兵庫県尼崎市の自宅マンションで遭遇し、冒頭で自宅からマイスタへ電話リポートを送った。この他、当日中継があったきくち教児山下泰則古賀ゆきひと、当日中継のなかった田坂るりも岐阜・愛媛・福岡・広島でそれぞれ地震に遭遇している。
^ 翌18日から20日は福留が神戸入りした19日も含めて全編地震報道となり、神戸市内など被害の大きかった各地や読売テレビ報道フロアと何度も中継を結びながら番組を進行。これにより「NSヘッドライン」や天気予報を除く全ての通常コーナーを休止した。また、20日放送分は読売テレビとの共同制作という形が取られた(内容や番組送出は通常通り日テレから)。福留は18・20日は通常通り東京のマイスタジオから出演したが、普段のラフな格好では無くスーツ姿で出演した。
^ しかし、当該の被災者は数分後に白骨まで燃え切った状態の遺体で発見されている。
^ この際の提供テロップは24時間テレビ 愛は地球を救うで92年から採用していた「ここまでは (スポンサー名)の提供でお送りしました 」
^ 秋田県では同日にテレビ朝日系列秋田朝日放送が開局
^ 前年流行語大賞にも選ばれた「ブッチホン」の有名な一例であり、日本テレビの番組でブッチホンを扱うときには必ずと言っていいほど流される。
^ 辛坊は福澤・羽鳥慎一が司会を務めた後番組の『ズームイン!!SUPER』で新聞解説を担当していたが、2011年当時は大阪に戻って『朝生ワイド す・またん!』の司会。
^ 中には四国放送のように自社制作のワイド番組を放送していた局もあった。
^ 但し、ANNに加盟したのは1980年4月1日。
^ 1981年3月31日NNNに加盟していたNSTでは未放送。
^ 1989年4月以降はテレビ朝日系列(サブ)とのクロスネット局でもあるが、テレビ朝日系列の一般番組供給部門には非加盟で、日本テレビの公式ウェブサイト上でも単独ネット扱い[1]。
^ 正式にはニュース系列NNN)のみ(NNSは非加盟)

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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