ズルワーン主義はサーサーン朝期(226年-651年)に国家承認を受けたが、10世紀には滅亡していた。サーサーン朝期のズルワーン主義はヘレニズム哲学から影響を受けていた。
ゾロアスター教が最初にヨーロッパに到達したとき、一元論的宗教だとみなされた。これは学者や現代ゾロアスター教徒からも異論の多い言明だが、ズルワーン主義に対して非ゾロアスター教徒が評価を加えた最初の例となる。 内部資料 - ゾロアスター教徒による資料[2] 外部資料 - 非ゾロアスター教徒による資料[2] 参考 ゾロアスター教の教義には、「双子の兄弟」、悪しき霊「アンラ・マンユ」と善なる霊スプンタ・マンユ(後にアフラ・マズダと同一視)が登場した。彼らが「双子の兄弟」なら「父」がいなければならない。そこで聖職者たちはズルワーンを「そこから双子が生まれてくるありうる唯一の『絶対者』」に同定した[6]。 ズルワーンが元はイラン神話の神なのか、異国の時間の神(ギリシアのクロノス)を輸入したのかは分かっていない。ズルワーン教の起源には以下の説がある[7] ズルワーン教はゾロアスター教の分派であること[11]、その教義は聖典の矛盾を解消するために聖職者たちが考え[12]、アケメネス朝後期に導入されたこと[13]に関しては広く受け入れられている。 二元論的な教義はサーサーン朝以前からあり、ズルワーン主義が二元論であるという前提で、ゼーナー(1961)は以下の主張を行った。マギ組織は、ザラスシュトラにより創設された。彼らはザラスシュトラの真の言葉である(と彼らがみなした)厳格な二元論に専心する熱狂的少数派だった(一方「教会」には正統派集団がいたに違いない)。
主な史料
ペルシア語史料
カルティールによる碑文 - 「ゾロアスターのカアバ」
ミフル・ナルセフによるゾロアスター教改宗勅令 - ズルワーン主義者による唯一の同時代史料
パフラヴィー語史料
『メーノーグ・イ・フラド』(9世紀)
『「ザートスプラム」選集』(9世紀) - ズルワーン主義の存在を証言する最後のゾロアスター教文書
『デーンカルド』(10世紀)9.30 - 後世のペルシア語批評書に残された唯一のズルワーン主義に対する言及
『ウラマー・イェ・イスラーム』(13世紀頃) - 明らかにゾロアスター教徒の手によるペルシア語文献。ズルワーン派の双子の父の教義に関して外国人がする話
ロドスのエウデモス『神学の歴史』(4世紀) - ズルワーン主義の存在を示す最古の証拠。空間・時間を、敵対関係にある光のオロマスデスと闇のアリマニウスの『父』とみなすペルシアの教派について記述。『第一の諸始原についてのアポリアと解』(ダマスキオス、6世紀頃)に引用されている[3]
キリスト教アルメニア語・シリア語資料 - ズルワーン主義について知られていることの大部分はこれらの資料による。サーサーン朝の宗教を明らかにズルワーン主義的なものとして描いている
アルメニア人コルブのエズニク『異端反駁』(5世紀)
アルメニア人エリシュー・ヴァルタペト『ヴァルダンとアルメニアの歴史』(5世紀)
シリア人ヨナンナーン・バル・ペンカイェー『世界年代記』(7世紀後半) - ネストリウス派修道士
シリア人テオドル・バル・コーナイ『注釈の書』(8世紀) - ネストリウス派主教
アルメニア人トヴマ・アルニツル『アルツルニ家の歴史』(900年ごろ)
パフレヴィー語文献
マニ『シャープーラカーン』(3世紀)
シャフラスターニー
『アヴェスター』 - ゾロアスター教の聖典。原ゾロアスター教の口伝をまとめた書物。ズルワーンが抽象的な目立たない神として2度登場するが、教派形成の証拠はない[4]
『ヤスナ』(72.10) - 大気と風(ワータ・ワユ
『ヤシュト』(13.56) - 時間がアフラ・マズダとアンラ・マンユの意思によって定まるのと同様にして植物が成長すると記されている
(『ヴェンディダード』) - ズルワーンに言及するも、後代に正典に付け足されたもので、ズルワーン主義の存在を証言していない。ヤザタ一覧にもズルワーンが登場しない
サーサーン朝期のゾロアスター教資料 - ズルワーン信仰の痕跡が見いだせない。これは個々のサーサーン朝君主が必ずしもズルワーン主義者ではなく、聖典編纂期にマズダ主義が優勢だったからだとゼーナーが主張した[5]
歴史
起源と背景
アケメネス朝後期の信仰形式自由化により生じたゾロアスター教の分派[8]
ズルワーンは後にゾロアスター教に統合されるゾロアスター教以前の神の一柱[9]
ゾロアスター教とバビロニア・東ローマの宗教との接触の産物[10]