1972年7月2日、ブットーはインドを訪問してインディラ・ガンディー首相と交渉し、和平、捕虜の帰還、カシミールでの停戦ライン画定などを定めたシムラー協定に調印し、またバングラデシュを承認した。一方で核開発計画に着手し、カナダの協力で11月に原子炉を建設した。中国の毛沢東と会談して高濃縮ウランの提供などの協力も取り付け[1]、後の核実験の成功につながることにもなる。1973年1月、バローチスターン州で反乱が起き、この鎮圧を軍に命じた。
3月30日、一部軍人がクーデタを計画したとして逮捕され、このときムハンマド・ジア=ウル=ハク准将が軍事裁判長に任命されている。4月12日、新憲法が発効した。
8月10日、大統領職をファザル・イラーヒー・チョードリー(英語版)に譲り、自らは首相となった。この時、旧知で詩人のファイズ・アハマド・ファイズが文化顧問担当に任命されている。7月にバングラデシュを正式に承認し公式訪問した。ブットは中国およびイスラム諸国との関係をさらに深めた。国内ではイスラム教(アフマディーヤ派の扱いなど)や分離主義などの問題も生じたが、国有化政策と経済開発が推し進められた。
しかし、官僚主義が蔓延するとともに経済効率は低下し、ブットーへの支持も低落していった。ブットーに対する批判は増し、特に政策的には近かった野党の国民アワミ党(英語版)(NAP)[注釈 1]との対立が激しくなり、同党の禁止と幹部の逮捕に至った。人民党内部でも対立が激化し、1974年3月にブットーと対立した幹部アフマド・ラザー・カスーリー(英語版)が狙撃され父が死亡した事件では党内抗争によるという非難が吹き出し、PPP幹部がブットーを公然と非難した。さらに地方の混乱を鎮圧するためとして派遣された軍が残虐行為を働いたとして非難された。1976年には、他の将軍を出し抜いてジア=ウル=ハクを昇進させている。1977年1月8日、反対派はパキスタン国民同盟(PNA)を結成した。ブットーは選挙を実施し、国民同盟は敗れたが選挙に不正があるとして無効を訴えた。イスラム指導者もブットー政権打倒を訴えた。ブットーは再度選挙を行うことに同意した。 1977年7月5日、ブットーと閣僚たちはジア=ウル=ハク将軍を中心とする軍により逮捕され、戒厳令が発せられた。また人民党と国民同盟の幹部も逮捕されたが、10月の選挙は認められた。ブットーは7月29日に釈放され、選挙に向けた遊説を開始した。8月には再度逮捕されたがまもなく釈放され、妻ヌスラトが人民党の次期党首に指名された。8月17日にまた人民党幹部とともに逮捕された。 ブットーはカスーリー暗殺に関与した容疑をかけられ、10月24日に裁判が開始された。関係者からブットーが関与したとする証言が出たが、彼は軍のでっち上げだと主張した。ラホール高等裁判所は1978年3月18日ブットーに死刑判決を言い渡した。1979年2月6日、ブットーは最高裁判所に判決の見直しを訴えたが、却下された。政権に対して死刑回避の国際的圧力が高まったにもかかわらず、4月4日絞首刑が執行された。遺体は故郷ラールカーナーで埋葬された。
クーデタと処刑
脚注[脚注の使い方]
注釈^ アワーミー国民党(ANP)の前身。
出典^ “ ⇒Pakistani nuclear scientist's accounts tell of Chinese proliferation”. ワシントン・ポスト. 2009年11月12日閲覧。
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