ズデーテン地方
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しかし10月18日にズデーテン・ドイツ人の集会が禁止され、同党幹部カール・ヘルマン・フランクらが警察による暴行を受けるという事件が発生した[11]。ヘンラインは公開書簡で早急な自治権設定を要求し、ドイツ公使も支持した。ここにいたってズデーテン地方のドイツ人問題は国際問題化し、ヘンラインも自治権要求から「ズデーテンのみならず全ボヘミア・モラヴィア・シレジア地方のドイツへの編入」に目標を切り替え、ドイツの支援を要請した[11]
ドイツへの併合進駐するドイツ軍を迎えるズデーテンラントの住民。1938年10月5日「ミュンヘン会談」および「ナチス・ドイツによるチェコスロバキア解体」も参照

チェコスロバキア大統領ベネシュはドイツとの交渉を拒否したものの、ドイツ総統ヒトラーはたびたび声明でズデーテン問題解決を訴えた。さらにヘンラインとフランクに「チェコスロバキア政府が受け入れられない要求」を行うよう指示した[12]。ホジャ首相とヘンラインはたびたび交渉するも、ヘンラインはその都度拒否した。1938年5月にはドイツ軍がチェコ国境に展開しているという誤報が流れ、チェコスロバキア側は対抗して軍を動員した。また同時期の地方選挙ではズデーテン・ドイツ人党がドイツ人居住域における9割の票を獲得している[13]。選挙後の8月14日にはベネシュ大統領が交渉に参加し、自治権を認め譲歩するも、ヘンラインはドイツに亡命し交渉を決裂させた[13]

1938年9月30日のミュンヘン会談では宥和政策を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認した。ズデーテン地方のチェコ人やユダヤ人、軍官吏は退去を余儀なくされ、1939年7月1日までに約22万人の難民(うち1万人はドイツ系)が併合地域からチェコに逃れ[14]、多くの財産を置き去りにせざるを得なくなった。一方で共産党員やチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党員の一部はチェコ官憲によって送還され、終戦までの期間を含めて7677人がドイツによって逮捕された[14]
ドイツ時代ズデーテンラント帝国大管区の紋章

ミュンヘン会談後の10月1日、ヘンラインがズデーテンラント担当国家弁務官に任ぜられ、軍政が敷かれた。1939年3月25日には北部のエーガーラントとズデーテンが「ズデーテンラント帝国大管区(ドイツ語版)」とされ、ヘンラインが大管区指導者となった[15]。また南部はバイエリッシュ=オストマルク大管区(1942年にバイロイト大管区に名称変更)、上ドナウ帝国大管区、下ドナウ帝国大管区に分割編入された。ズデーテンラントに対する強制的同一化が進む中でチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党などの抵抗組織は弾圧され、強制収容所に送られた。

1939年3月1日にはチェコスロバキアも解体され、ボヘミアとモラビアはベーメン・メーレン保護領となり、フランクが親衛隊及び警察指導者となった。保護領ではチェコ人に激しい弾圧が加えられ、チェコ人の間でドイツ人に対する報復感情が高まった。このため反ナチス運動・亡命政府・連合国では、ドイツ系住民の国外追放が重要な政治問題となった[15]
亡命運動「ドイツ人追放」も参照

ズデーテン割譲後のチェコスロバキアに対するドイツの圧力が強まるなかで、チェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党指導者は亡命を選択した。彼らはドイツ社会民主党の亡命組織ソパーデ(英語版)と連携をとろうとしたが交渉は決裂した。

1939年5月30日にチェコスロバキア共和国ドイツ人社会民主党のヴェンツェル・ヤークシュ(英語版)はロンドンで「ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織」を設立し、ズデーテン地方を代表する民主主義勢力として活動を再開した。9月30日、ドイツがポーランド侵攻を開始し、第二次世界大戦が開始されるとベネシュはチェコスロバキア亡命政府を設立して、ミュンヘン協定の無効化を目指して動き出した。ヤークシュはイギリスとも接触したが、彼らがズデーテン住民を代表していないとして拒絶された[16]。ベネシュとヤークシュは抵抗運動の一本化のため何度も折衝を重ねたが、ボヘミア・モラヴィアの枠にとらわれない連邦制を構想していたヤークシュに対し、ベネシュは戦前と同じ単一のチェコスロバキア共和国の再現を目指していた。さらに国境線の維持のため、ドイツ人の強制移住をも視野に入れていた。

1940年3月にズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織は、ズデーテン・ドイツ人の自治権を求めるとともに、強制住民交換や移動に反対する「ホルムハースト宣言」を策定した[17]。しかしベネシュとの交渉は難航し、一部の幹部はヤークシュを見限って亡命政府側に合流した[18]

1941年独ソ戦が開始され、ソビエト連邦が連合国側に加わった。12月、ソ連指導者ヨシフ・スターリンは戦後構想として、ベッサラビア等の領土要求とともに、東プロイセンダンツィヒの編入や東部のソ連への割譲を含むポーランド国境の変更、ズデーテンを含むチェコスロバキアの再建を提案した[19]。ソ連の提案はドイツ人居住域からのドイツ人強制移住を前提とするものであり、アメリカやイギリスでもドイツ人移住が本格的に討議されるきっかけとなった[20]。この動きはベネシュ等亡命政府側にとっては好都合であったが、ズデーテン・ドイツ社会民主党亡命組織側にとっては自己の存立を脅かされる事態であった。1942年8月5日、イギリスはついにミュンヘン協定の無効を宣言し、亡命政府の目標がひとつ達せられた[21]。以降ベネシュのチェコスロバキア亡命政府はヤークシュ等と関係を断絶し、連邦制は実現性を失った。

1945年2月のヤルタ会談では国境線に関するソ連の要求がほぼ貫徹され、戦後のドイツ人強制移住方針が固まった。
戦後ドイツ人追放「チェコスロバキアからのドイツ人追放」も参照

1945年5月のドイツ降伏後、亡命政府を母体とするチェコスロバキア臨時政府はドイツ系住民の資産凍結、市民権の制限などの布告(ベネシュ布告)を発した[22]。しかしドイツの権力が消滅し、チェコスロバキア政府も十分に支配権を持っていない状況で、報復的殺戮や強制労働などが行われた。8月2日のポツダム協定でドイツ人追放が正式決定されたことで、混沌状態は一応終結し、250万人におよぶドイツ人の公式移送が始まった。しかしこの過程でも25万人の老人や子供が死亡したという、ズデーテン・ドイツ人側の主張がある[22]。1950年までにチェコ在住ドイツ人の大半は自主的、あるいは強制的に東西ドイツやオーストリアに去り、チェコスロバキア国内に残留したドイツ人は16万5千人に過ぎなかった[22]

追放ドイツ人の4割は西ドイツドイツ連邦共和国)のバイエルン州に移住し、チェコスロバキアに対してベネシュ布告の廃棄と補償を求める活動を開始した。ズデーテン・ドイツ人団体の中でも最大の組織がランツマンシャフト(ドイツ語版)(郷党会)であり、1990年には会員数14万人を数えている[23]。これら諸団体は協議機関としてズデーテン・ドイツ人評議会(ドイツ語版)を結成している。ランズゲマインシャフトはバイエルン州の保守勢力と結びつき、西ドイツ政界にも影響を与える存在となった[24]

東ドイツ(ドイツ民主共和国)首相ヴァルター・ウルブリヒトは1950年にチェコスロバキアを訪問し、「両国の間に懸案や未解決の問題は存在しない」としてドイツ人追放やズデーテン地方の所属に異論がないとした[25]。一方で西ドイツ側は東ドイツと国交を結んでいる国とは外交関係を結ばない方針をとっていたため、チェコスロバキアとの交渉が行われるのは1970年代のヴィリー・ブラント政権による「東方外交」開始以降であった。1973年12月11日に「チェコスロバキア社会主義共和国とドイツ連邦共和国間の相互関係条約」(プラハ条約(ドイツ語版))が締結され、ミュンヘン協定の無効と領土的要求が相互に存在しないことを確認したが、ドイツ人追放問題については触れられなかった[26]


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