1815年11月19日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では12月1日)、ポーランド会議王国(ロシア領ポーランド)で1ズウォティ=15コペイカ(=0.15帝国ルーブル)≒純銀2.7g、1グロシュ=1⁄2コペイカとする新体系が制定された。これに従い、1816年から1855年まで1、2、5、10ズウォティ銀貨が発行されていた。
1830年、11月蜂起を起こしたポーランド反乱軍は、独自のドゥカト金貨、2、5ズウォティ銀貨(革命の紋章があしらわれていた)、3、5グロシュ銅貨を発行した[25]。蜂起が鎮圧された後も、この時発行された貨幣は長く流通し続けた。ただ反乱の揺り戻しでルーブルが会議王国唯一の法定通貨とされた。1892年、ガリツィア・ロドメリア王国(オーストリア領ポーランド)にオーストリア=ハンガリー・クローネが導入された。クラクフ共和国は1835年から1846年にかけて独自のクラクフ・ズウォティ(英語版)を使っていた。ただその貨幣はオーストリアのウィーンで発行されていた。
第一次世界大戦中、中央同盟国は占領下に建設したポーランド摂政王国でルーブルとクローネを廃し、ドイツのパピエルマルクと同等のポーランド・マルカを通貨とした。中央同盟国が敗北してポーランド第二共和国が独立した後もしばらくポーランド・マルカが使われたが、この通貨は極めて不安定で経済を混乱に陥れ、ギャロッピング・インフレーション(英語版)を引き起こした。
第二ズウォティ500ポーランド・マルカ紙幣。1924年に再制定されたズウォティにとってかわられた。1936年以降に発行された20ズウォティ紙幣。肖像はエミリア・プラテル。
1924年4月、第二共和国の財務相ヴワディスワフ・グラプスキ(英語版)がズウォティ通貨を復活させた[26]。180万マルカが1ズウォティに交換され、グロシュの位置づけもかつての体系と異なる1ズウォティ=100グロシュとされた[27]。
第二ズウォティはアメリカのニューヨーク連邦準備銀行からの借款を元手にアメリカ・ドルとレートを固定され、通貨の安定が図られた[28]。しかし予算不足のために、インフレーションは統御できない勢いで進み続けた。1926年になって、石炭輸出による大量の外貨獲得などのおかげでズウォティは安定し始め[29]、ドル・ズウォティ固定レートが1924年より50%高い値で再設定された。1933年までは、ズウォティは金との自由兌換が可能だった。こうした通貨の発展をもとに、ポーランド政府は世界中からの投資を呼び込むべく、金本位制に移行した[30]。
第二次世界大戦、ポーランドはナチス・ドイツとソビエト連邦に占領された。ポーランド銀行はフランスのパリに脱出していたため、ドイツ占領当局がクラクフに「発券銀行」 (Bank Emisyjny)を設立した[31]。この銀行は1940年4月8日に運営が始まり、それまでの1924年から1939年までに発行された古い紙幣はスタンプを押されて書き換えられた[32]。個人による両替は制限され、両替限度額はその人の地位によって異なっていた。固定両替レートは2ズウォティ=1ライヒスマルクだった[33]。1940年から1941年にかけて、新たな紙幣も流通し始めた[34]。
解放後の1945年1月15日、ポーランド国立銀行が設立され、ウッチに新たな造幣印刷所がつくられた[35]。紙幣のデザインも、リシャルト・クレチェフスキとヴァツワフ・ボロフスキ(英語版)の手により第二・第三のシリーズが生み出された。ただ戦前からの第一シリーズも含め、これら3シリーズの紙幣デザインは1950年10月28日に定められた新通貨法制により廃止された[36]。 1950年、第三ズウォティ (PLZ)が導入された。1948年までに発行された貨幣は、100旧ズウォティ=1新ズウォティのレートで交換された。またすべての銀行資産も100:3の比でデノミネーションが行われた。1948年以降の紙幣と1949年以降の硬貨が新ズウォティとされた。1950年に発効した法制度によれば、1ズウォティ=純金0.222168gと定められていた[37]。 1989年に共産主義体制が倒れ、1990年にハイパーインフレーションが発生したため、再度ズウォティのデノミネーションが行われることになった。1994年5月11日、デノミネーションに向けたポーランド国立銀行のプロジェクトが認可され、1994年7月7日にプロジェクトに実効力を与える法が制定された。これにより、1995年1月1日をもって、1万旧ズウォティ(PLZ)=1新ズウォティ(PLN)のレートによる移行が実施された[33]。
第三ズウォティ (PLZ)
第四ズウォティ (PLN)