ズウォティ
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金片である1ズウォティを30グロシュとするレートが定められ、これが19世紀まで使われ続けた[21]。1526年から1535年にかけて、ポーランド王ジグムント1世ミコワイ・コペルニク(ニコラウス・コペルニクス)とユストゥス・ルドヴィク・デチュシュ(英語版)(ユストゥス・デキウス)の建言により大規模な貨幣改革を実施した。その一環として1528年2月16日に発された造幣法令により、ズウォティは法定通貨とされた[22]

しかしその後もしばらく、ポーランドは複雑で込み入った通貨体系を使い続けていた。18世紀になり、スタニスワフ2世アウグストの改革ですべての通貨体系が1ズウォティ=30グロシュの体系に一本化された。また1協約ターラー(英語版)(神聖ローマ帝国の通貨)=8ズウォティ=純銀23.3856g、1北ドイツターラー(英語版)=6ズウォティ=銀17.5392gという交換レートが定められた。つまり、1ズウォティは銀2.9232gに相当した。

 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}タデウシュ・コシチュシュコにより1794年6月8日にポーランド・リトアニア共和国で初めて発行されたズウォティ紙幣。左から5、10、25、50、100ズウォティ。

1793年、ポーランド・リトアニア共和国は第二次ポーランド分割により約20万平方キロメートルもの領土を失った。これに抵抗するべくコシチュシュコの蜂起が勃発したが、蜂起軍は経済崩壊した共和国で周辺諸国に抗するための軍事費不足に苦しむことになった。硬貨を発行しようにも十分な地金がないため、代替となる貨幣が必要になった。1794年6月、蜂起の指導者タデウシュ・コシチュシュコは紙に印刷したズウォティを発行した。これがポーランド初の、硬貨の代用となる紙幣となった[23]。このズウォティ紙幣は1794年8月13日から流通し始めた。

結局蜂起は失敗に終わり、ポーランド・リトアニア共和国は1795年の第三次ポーランド分割で消滅した。しかしその後もズウォティは流通し続け、フランス皇帝ナポレオン1世のもとでワルシャワ公国が成立した際には、タラル(ターラー)、ズウォティ、グロシュの3種による通貨体系が定められた。なおタラルはプロイセン・ターラー(英語版)(純銀16.704g)が基準とされたため、ズウォティの価値は若干目減りすることになった(1ズウォティ=銀2.784g)[24]。同時にタラル紙幣も発行された。1813年、ザモシチ市が敵の包囲を受ける最中に6グロシュ硬貨と2ズウォティ硬貨を発行した。1815年のウィーン会議でワルシャワ公国が再分割された後も、オーストリア領やロシア領となった地域ではしばらくズウォティが使われ続けた。一方プロイセン領となった地域では、タラル・ズウォティ体系はプロイセン・ターラー体系に改められ、後には金マルクが導入された。

1815年11月19日(ユリウス暦グレゴリオ暦では12月1日)、ポーランド会議王国(ロシア領ポーランド)で1ズウォティ=15コペイカ(=0.15帝国ルーブル)≒純銀2.7g、1グロシュ=1⁄2コペイカとする新体系が制定された。これに従い、1816年から1855年まで1、2、5、10ズウォティ銀貨が発行されていた。

1830年、11月蜂起を起こしたポーランド反乱軍は、独自のドゥカト金貨、2、5ズウォティ銀貨(革命の紋章があしらわれていた)、3、5グロシュ銅貨を発行した[25]。蜂起が鎮圧された後も、この時発行された貨幣は長く流通し続けた。ただ反乱の揺り戻しでルーブルが会議王国唯一の法定通貨とされた。1892年、ガリツィア・ロドメリア王国(オーストリア領ポーランド)にオーストリア=ハンガリー・クローネが導入された。クラクフ共和国は1835年から1846年にかけて独自のクラクフ・ズウォティ(英語版)を使っていた。ただその貨幣はオーストリアのウィーンで発行されていた。

第一次世界大戦中、中央同盟国は占領下に建設したポーランド摂政王国でルーブルとクローネを廃し、ドイツのパピエルマルクと同等のポーランド・マルカを通貨とした。中央同盟国が敗北してポーランド第二共和国が独立した後もしばらくポーランド・マルカが使われたが、この通貨は極めて不安定で経済を混乱に陥れ、ギャロッピング・インフレーション(英語版)を引き起こした。
第二ズウォティ500ポーランド・マルカ紙幣。1924年に再制定されたズウォティにとってかわられた。1936年以降に発行された20ズウォティ紙幣。肖像はエミリア・プラテル

1924年4月、第二共和国の財務相ヴワディスワフ・グラプスキ(英語版)がズウォティ通貨を復活させた[26]。180万マルカが1ズウォティに交換され、グロシュの位置づけもかつての体系と異なる1ズウォティ=100グロシュとされた[27]


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