ただし開業当初の紀ノ国屋は規模も小さく(40坪)青果のみを扱う[16]高級店であり、生鮮三品(青果・精肉・鮮魚)を含むさまざまな食料品を低価格で大量販売する点において、1956年3月10日に福岡県小倉にオープンした「丸和フードセンター」を「スーパーマーケットの元祖」とする見解もある[12][13][17]。このほか、1956年2月に八幡製鉄購買会(従業員向けの福利厚生の一環としての会員制小売組織)の分配所のひとつがセルフサービスを取り入れており[16]、万人に開かれた営利組織ではないものの[13][16]、セルフサービス方式の普及に貢献したとの評価がある[16]。
1950年代末-1960年代:初期の拡大1960年代のスーパーマーケット。当時の店員は白衣を着ていることが多かった
丸和社長の吉田日出男は、公開経営指導協会の喜多村実に招聘されて同業態の指導・普及に努め、各地に「主婦の店」を称するスーパーマーケットが設立されることになった[13]。背景として、当時は生活協同組合の成長が中小小売店にとって脅威と受け止められており、高い販売効率で驚異的な売り上げを記録した吉田の体験が、先進的な中小小売店や日本専門店会連盟会員から注目されたことがある[13]。「主婦の店」運動は1958年末に全国27店舗を数える広がりを有したが、1958年8月に方針をめぐって分裂することとなった[13]。
1958年3月には「日本セルフ・サービス協会」が設立された(初代会長は紀ノ国屋の増井徳男)[18][19][注釈 1]。12月、同協会は「スーパーマーケットとは、単独経営のもとに、セルフサービス方式を採用している総合食料品小売店で、年商1億円以上のものをいう」とする「スーパーマーケットの定義」を発表する[18][19]。1962年には共同仕入れと情報交換のための組織としてオール日本スーパー経営者協会(初代会長は淡路主婦の店の西岡茂。1972年にオール日本スーパーマーケット協会)が発足した。
新たな業態であるスーパーマーケットには「スーっとできて、パーっと消える」と揶揄される不安定さがあった[13]。1964年東京オリンピック終了後、中小企業が中心であったスーパーマーケット業界は資金繰りに苦しみ続々倒産を余儀なくされた。ニチイはこの危機を取引先の増資引受と銀行の協力で回避した当時の成功例である。 1960年代後半以降、スーパーマーケットの大規模化・総合化が進むと、地元小規模小売業者との紛争も発生するようになった[20]。1973年には大規模小売店舗法が制定(略称「大店法」。1974年施行)され、大型スーパーマーケットを含む「大規模小売店舗」の進出に際して、利害調整が図られた[20]。「大規模小売店舗」は店舗面積500平方メートル以上のものとされた[21]。 1973年に第一次オイルショックが発生。消費者の不安はスーパーマーケットでの石油関連商品やトイレットペーパーの買い占めという形で現れた(トイレットペーパー騒動)。同年10月、三徳の呼びかけにより中堅・中小スーパーマーケットが結集してCGCグループ(シジシージャパン)が設立される[22]。
1970年代-1980年代:大店法とスーパーマーケット