スワヒリ語
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スワヒリ語話者はかつて北はモガディシュまで広がっており、紅海南部の港市やアラビア半島南岸、ペルシャ湾岸でも通用した[5][6]。しかし、20世紀半ばまでにソマリアにおけるスワヒリ語の範囲はキスマヨバラワおよび周辺の海岸沿いと沖合の小島のみへと狭まり、1990年にはスワヒリ語話者を含む多くのバントゥー系が内戦を避けてケニアへ流れた。現在ソマリアに残っているスワヒリ語話者の人口は定かでない。また、アフリカ連合においては英語、フランス語、スペイン語ポルトガル語アラビア語と並んで6つの公用語のうちのひとつとなっている。スワヒリ語話者の増大と言語の地位上昇に伴い、世界各国の放送局がスワヒリ語放送を開始している。スワヒリ語圏以外でスワヒリ語放送を行っている、あるいは行っていた放送局は、BBCワールドサービスボイス・オブ・アメリカドイチェ・ヴェレロシアの声中国国際放送ラジオ・フランス・アンテルナショナル、ラジオ・スーダン、ラジオ・南アフリカなどである。

ガスリーによるバントゥー諸語の分類法では、スワヒリ語はGゾーンに属する。

スワヒリという語は、アラビア語で「海岸に住む人」を意味する「saw?halii ??????」に由来する(saw?haliiは「s?hil ????」(海岸、境界)の複数形「saw?hil ?????」の派生語)。

知られている最も古いスワヒリ語文献は、1711年にキルワ島でアラビア文字で書かれた手紙である。これはキルワ王国のスルターンが、モザンビークポルトガル人と、地元の同盟国に向けて書いたものである。この手紙は、現在はインドゴアにある歴史的公文書館に収蔵されている[7]。このほか、知られている最古のスワヒリ語文献の一つには1728年の『Utendi wa Tambuka』(Tambukaの物語)と題するアラビア文字による叙事詩がある。ラテン文字が一般化したのはヨーロッパ諸国による植民地化以後のことである。

スワヒリ語は「メサリ(スワヒリ語版) (methali)」、すなわち言葉遊び・洒落・韻文の形をとる諺・寓話の類が発達している(例:Haraka haraka haina baraka 英訳:Hurry hurry has no blessing)[8]。メサリはスワヒリラップ(Swahili rap, Swah rap)の中にも見ることができ、音楽に文化・歴史・地域的な質感を与えている。
歴史
スワヒリ語の由来

現代スワヒリ語にはアラビア語ペルシャ語以外にも英語からなどの借用語が多く含まれており、とくに語彙の5割がアラビア語であると言われている[2]ため、クレオール言語の一つと見なされているが、学説上では単一言語起源説と複数の言語的な核の存在を想定する説で分かれている。
単一起源説
マインホフやレールによれば、現在のザラモ族(英語版)の祖先(Washombi族)がスワヒリ族(英語版)であり、スワヒリ海岸に住んでいた彼らが利用していた言語にアラブやペルシャ語の語彙が混じったものがスワヒリ語だったというものである。根拠としてはマサイ語でスワヒリ語がEnguduku ol-Ashumbaとすることがあげられている。
非単一起源説
イスラーム化した海岸諸民族は、他の民族と区別されアラブ人と同一の社会を構成した。その場合14-15世紀にスワヒリ語を媒介とした薄い連帯が16世紀に完成したと見なす。その場合の発祥の中心としてラム島を想定するクルムなどがいるが、アラビア人の最初の逗留地はソマリア海岸であることから反論されている。
発展・伝播アラビア文字で書かれたスワヒリ語のコイン。ザンジバルの1Pysar硬貨。イスラム暦1299年(西暦1882年)発行アラビア文字で書かれたスワヒリ語。ケニア、ラム島の家屋の木のドアアラビア文字で書かれたスワヒリ語。ケニア、モンバサフォート・ジーザス

上記のようなさまざまな説があるものの、アフリカ東部沿岸にポルトガルが来航した16世紀初頭までにはスワヒリ語としてある程度整った言語体系がすでに成立していたと考えられている。しかし、その範囲はそれほど広いものではなかった。スワヒリ語が沿岸部全体に拡散していくのは、ポルトガルがこの地域の覇権を握った16世紀からと考えられている。アラブ人がポルトガルによって排除されたことから、それまでこの地域の商業用言語であったアラビア語の影響力が衰退し、かわってスワヒリ語が商業言語として台頭してきた。スワヒリ語を母語とするシラジ人がこのころザンジバルを中心に勢力を拡大しているのもスワヒリ語拡散の一因となった。17世紀にはポルトガルに代わってアラビア語を母語とするオマーンのヤアーリバ朝がこの地域の覇権を握るが、ほどなくしてオマーン本土で混乱が生じたため強力な統治を行うことができず、文化的影響はそれほど大きくなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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