2012年現在、最もスワヒリ語の重要性が高いのはタンザニアである。タンザニアにおいてはスワヒリ語は元々タンガニーカ海岸部のスワヒリ系民族の母語であり、内陸部にも広く浸透していた。これを受けて1960年のタンガニーカ独立と同時においてスワヒリ語は公用語に指定された。1964年には沖合いに浮かぶザンジバルと合併してタンザニア連合共和国となるが、ザンジバルにおいてはもともとスワヒリ語の母語話者がほとんどを占めており、この政策はより推進されることとなった。このスワヒリ語重視政策を立案し推進したのは、タンガニーカ初代大統領のジュリウス・ニエレレである。ニエレレは言語統一こそが国家統一において最も重要なものの一つであると考え、スワヒリ語の普及と整備に多大な貢献をした。スワヒリ語公用語化はニエレレの政策であるが、ほかのアフリカ新独立国においては、共通語として現地の言葉が広い地域で通用することはあるものの、在来の言葉を公用語化した国家は存在しない。1967年には国立スワヒリ語審議会を設立し、語彙や文法の整備を政府の手で行った。
その結果、タンザニアにおいて、政府関係の文書は基本的にスワヒリ語で作られている。マスコミにおいてもスワヒリ語は積極的に使用され、また、初等教育はすべてスワヒリ語で行われ、政府もさまざまな形で普及を図っている。これはタンザニア人としてのアイデンティティ創出の一環として推進された。その結果、タンザニアでは国民のほぼ100%がスワヒリ語を解するとされ、国家内で同一の言語が通じることはタンザニアの政情安定に大きく貢献しているとされる[14]。一方で、語彙の整備が行われスワヒリ語が高等教育にも十分耐えうる言語となっているにもかかわらず、高等教育においては英語教育が貫かれ、スワヒリ語での高等教育は行われていない[15]。これは他のアフリカ諸国と同様、エリート層においては英語能力がほぼ必須であり、高等教育をスワヒリ語化することでエリート層の優位性の一つが崩れてしまうことへの反発や、研究書等のスワヒリ語訳にはコストがかかり、そのまま英語を使用した方が安上がりに済む場合が多いなどの理由がある。また、小学校から学校では一貫してスワヒリ語中心の生活を子供たちが送るため、タンザニア国内各地に点在する諸語の利用が低下し、各民族語の継承が困難になるケースも散見されている[16]。 ケニアにおいてはスワヒリ語は国語とされ、また英語とともに公用語に定められている。これまで正式には定められていなかったが、2010年8月27日に発布された新憲法においてその地位は明確に規定された。ケニアにおいてもスワヒリ語はリンガフランカとしての地位を保っており、かなりの数の人々が共通語としてスワヒリ語を解することができる。ただし、特に首都ナイロビで話されるスワヒリ語は標準スワヒリ語からはかなりかけ離れたものであり、ナイロビ・スワヒリ語とも呼ばれる方言が使用されている[17]。いっぽうで、隣国タンザニアと異なり学校教育においては英語が教育言語として使用されており、初期教育においては諸民族語も指定されているものの、母語話者の少ないスワヒリ語は海岸部の母語話者地域を除いては教育言語とはなっていない。また、公用語としても英語の使用が優勢である。首都ナイロビは本来はキクユ語圏であり、キクユ語を中心に話すものも数多い[18]。 1970年代より、首都ナイロビを中心に、上記のナイロビ・スワヒリ語とはまた別の、シェン(Sheng)と呼ばれるスワヒリ語の方言が発生した。シェン(Sheng)とはスワヒリ語(Swahili)と英語(English)の合成語であり、その名のとおりスワヒリ語のナイロビ方言に英語やルヒヤ語、キクユ語、カンバ語、ルオ語といった近隣諸民族の言語の語彙を多く導入したもので、マタツ(乗り合いタクシー)の運転手などから若者言葉として広まり、音楽などのポップカルチャーなどにも使用されるようになった。 ウガンダにおいては、スワヒリ語の地位は上記2国に比べてもなお低い。ウガンダは首都カンパラを擁する旧ブガンダ王国地域が主導権を握っており、共通語もガンダ人の話すガンダ語が使用されることが多い。これに反発するブガンダ以外の諸地域はガンダ語の普及に消極的であり、国内のどの民族の母語でもないスワヒリ語は彼らの支持によって2005年に英語と並ぶ公用語に指定された。これは、スワヒリ語が重要な役割を果たすケニアおよびタンザニアとの東アフリカ連邦
ケニア
ウガンダ