歴史的に現在のスロベニアの領域は多くの異なった国により支配されており、その中にはローマ帝国や神聖ローマ帝国、それに続くハプスブルク帝国などが含まれる。1918年、スロベニアは国際的には認められていないものの自己決定権を行使し他民族と共同でスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を樹立し、後に1つとなりユーゴスラビアとなった。第二次世界大戦中、スロベニアはナチス・ドイツやイタリア王国、クロアチア独立国、ハンガリー王国に占領や併合されていた[29]。戦後は新たに樹立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国の共和国の一つとなった。1991年6月に複数政党制の間接民主制を導入し、スロベニアはユーゴスラビアから独立した国となった[30]。2004年にはNATOとEUに加盟し、2007年には元共産主義国としては最初にユーロ圏に加わり、2010年にはOECDに加盟している[31]。 正式な国号はスロベニア語で Republika Slovenija (レプブリカ・スロヴェニヤ)。通称は Slovenija 。公式の英語表記は Republic of Slovenia 。通称 Slovenia 。スロベニア共和国政府による日本語の公式表記は「スロヴェニア共和国」。ただし、日本の外務省による日本語の公式表記は、「スロベニア共和国」。通称「スロベニア」。古くは斯洛文尼亜という漢字表記が用いられた事もあった。 語源については諸説ある。一つに、スロバキアと同じく「スラブ」(Slav)と同源であるとする説があり、両国名の類似の原因をこれに求める意見がある[2]。「スラブ」は古スラブ語で「栄光」や「名声」を意味する slava に由来している。一方、「言葉」や「会話」を意味する slovo に由来するとの説もある。9世紀ごろのスラブ民族は、自らを「スロヴェーネ」(slov?ne:同じ言葉を話す=意思疎通が出来る人々)と呼んでいたとされる[32]。現代英語でスロベニア人に対する総称(デモニム)は Slovenian と Slovene であるが、後者は上述の slov?ne に由来する。
国名
歴史詳細は「スロベニアの歴史」を参照
中世・近世1400年の神聖ローマ帝国。スロベニアが領域に含まれている。
15世紀にはハプスブルク家(オーストリア公国)の所領となり、以降オーストリア大公国、オーストリア帝国そして1867年にオーストリア=ハンガリー帝国領となった。
19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトのフランス帝国による支配を受ける。フランス統治下ではイリュリア州が設置され、スロベニア語が州の公用語のひとつとなった。1809年から1813年の間、リュブリャナはフランス第一帝政イリュリア州の首都だった。これは、スロベニア語が公的地位を得た初めてのことであり、文語としてのスロベニア語の発展は勢いづいた。ナポレオンが去ると、ウィーン会議で締結された議定書によって再びオーストリア領となった。
近代枢軸国により分割されたスロベニア。灰色がドイツ、緑がハンガリー、残りがイタリア占領地で、後に縦縞の部分がクロアチア独立国統治下となる。
その後1918年に第一次世界大戦が終了しオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、セルビア王国の主張する「南スラヴ人連合王国構想」に参加。セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立に加わった。この際スロベニアの一部地域ではオーストリアとの経済的・文化的な結びつきが強かったため、住民投票が行われ、オーストリア共和国に帰属するか、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に帰属するかを住民投票で決めた地域が存在する。この王国は、1929年にユーゴスラビア王国に改称した。
1941年4月にユーゴスラビアに枢軸国が侵入すると、スロベニアの首都リュブリャナは同年4月10日までにドイツ国防軍により占領された[33]。ナチス・ドイツの同盟国のイタリア王国はスロベニア沿岸地方を自国の領土と考えていたため、後にリュブリャナはベニート・ムッソリーニ指揮下のイタリア軍によって統治され、北東の一部の地域はハンガリーが占領、さらにクロアチア独立国が成立するとイタリア占領地域のうち南東部がクロアチア統治下となり、スロベニア人の住む地域は都合4つの勢力(実質的には3勢力)によって分断された。占領に反対した右派ナショナリストたちはロンドンに逃れたユーゴスラビア王国亡命政府を支持したが、後に枢軸陣営に加わった。他方、共産主義者たちはヨシップ・ブロズ・チトーのパルチザンに加わり、ドイツ軍などと戦った。
パルチザンはスロベニアを含むユーゴスラビア全土を武力でドイツ軍から解放した。大戦前はイタリア領とされていたイストリア半島(イストラ半島)はユーゴスラビア領となり、スロベニアはコペル周辺で海岸線を手に入れることとなった。また、スロベニア人が多く住むオーストリアのケルンテン州の一部も求めたが、この要求は認められなかった。