スロバキア
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^ a b c d IMF Data and Statistics 2020年5月23日閲覧([1])
^ スロバキアのユーロ硬貨も参照。
^ 1997年まではチェコと共に42。

スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、スロバキア語: Slovenska republika、通称スロバキア)は、中央ヨーロッパ共和制国家。首都はブラチスラヴァで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。
概要

国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。古代にはサモ王国[注釈 1](623年 - 658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下に置かれていた。ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。
国名

正式名称(スロバキア語)はSlovenska republika[注釈 2]、通称 Slovensko[注釈 3]

日本語の表記はスロバキア共和国、通称スロバキア。英語表記は Slovakia、国民・形容詞ともSlovak。漢字表記は斯拉仏克。

スロバキア語で「スロヴェンスコ」という国名は「スラヴ人の地」を意味する。スラヴに語源を持つのはスロベニア共和国やクロアチアのスラボニア地方とも同じであるため、これらは類似した国名になっている[1]
歴史詳細は「スロバキアの歴史」を参照
先史時代

ケルト人ハルシュタット文化を受け入れたイリュリア人と、より古いプロト・スラブ人(イリュリア人系統)のルサチア文化が栄えていたが、鉄器時代末期にウーニェチツェ文化西部群の後継であるラ・テーヌ文化に属するケルト人(コティニ人(英語版)・ボイイ族)の侵略によって崩壊し、プコフ文化(英語版)に転換した。
古代ローマ

1世紀ごろゲルマン人ダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅した。マルコマンニ戦争のパンノニア遠征(168年 - 169年)。
民族移動時代「民族移動時代」も参照

2世紀および3世紀にフン族が、5 - 6世紀ごろにゲルマン人東ゴート人ランゴバルド人ゲピド人ヘルール人)がパンノニア平原に移住してきた。568年にはアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功してサモ王国(623年 - 658年)が樹立された。
大モラヴィア王国モラヴィア王国の版図(緑、870年)。緑の線がスヴァトプルク1世による最盛期(894年)

9世紀に現在のスロバキア、モラヴィアボヘミアシレジア地方に大モラヴィア王国が成立。スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。また、この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人スロバキア人などというように分類できない面があった。
ハンガリー王国時代12世紀ハンガリー王国マジャル人が用いていたとされる『羊飼いの斧(英語版)』と呼ばれる武器の木製レプリカ
独特の装飾が施されている。

10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。ただしハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。さらにオスマン帝国がハンガリーに侵入すると、王領ハンガリーの一部としてオーストリア大公国の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域とみなされるようになった。この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。この時期、チェコはハプスブルク家を皇帝とするドイツ人諸邦連合である神聖ローマ帝国の一員(首都が置かれたことすらある)であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルクの支配は受けつつもその枠外とされていた。すなわち、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア、チェコ、北イタリア)と外にまたがって版図を持っていたことになる。
オーストリア帝国時代

19世紀半ば、オーストリア帝国時代、民族主義の流れによって周辺のスラヴ人がそれぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えていく中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分たちが話す言語をスロバキア語であると主張するようになった。またこのころ、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。
チェコスロバキア独立戦間期チェコスロバキア詳細は「チェコスロバキア」を参照

オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアはともに連邦国家構想を支持していたが、第一次世界大戦の終了とともにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。さらにハンガリーに侵入し、北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。しかしこの行動はハンガリーなどで領土回復運動が高まるきっかけとなった。
スロバキア共和国(1939年 - 1945年)スロバキア共和国。赤がハンガリーに割譲された地域詳細は「スロバキア共和国 (1939年-1945年)」を参照

1938年9月29日、ミュンヘン会談。ハンガリーのスロバキア領要求が列強に確認される。

1938年11月2日、第一次ウィーン裁定


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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