隊列の先頭は第281旅団の兵士とスレブレニツァの有力者らであり、ナセル・オリッチの 家族も含まれていた。途中の部分は兵士と民間人が混在しており、末尾は第282旅団の兵士が固めていた。スルプスカ共和国軍は、スレブレニツァのボシュニャク人らはポトチャリに逃げこむことを想定し、トゥズラまでの強行突破を図るという事態を想定していなかったため、即座に対応することができず、大きな混乱をもたらした[55]。隊列の長さは12キロメートルから15キロメートルにも及び、先頭集団が出発したのが7月12日の0時過ぎで、末尾が出発したのは同12日の正午近くとなっていた[55]。 ボシュニャク人の隊列がトゥズラまでの行軍を始めたことを知ったスルプスカ共和国軍は、急遽、可能な限りの兵力や重火器類を集めて対応を始めた。ボシュニャク人集団がカメニツァ(Kamenica)周辺を前進していた12日の午後8時頃、この集団がトゥズラへ向かうために必ず横断しなければならない舗装道路に、スルプスカ共和国軍が警戒線を敷いて待ち伏せしていた。隊列の先頭を歩いていた集団は、この警戒線が完成しないうちに道路を渡り切ることに成功したが、後続の集団はコニェヴィチ・ポリェ近くでこの道路を横断しようとしたところで、セルビア人の襲撃を受けることになった。隊列は中央で二分され、後続集団は道路を横断できないまま行く手をふさがれ、先頭集団との連絡は絶たれて取り残された。彼らはここに数日間にわたって閉じ込められ、その間、セルビア人側から激しい銃撃、砲撃を受け続けた。また、セルビア人はメガホンを用いて、ジュネーブ条約の順守や捕虜交換が行われる旨を告げ、投降を呼びかけた。彼らは、オランダ軍から奪った国連のヘルメットや青い車両などを用いて安心させるといった手段も用いた。後続集団に対するセルビア人の「人間狩り」によって、ノヴァ・カサバ(Nova Kasava)およびサンディチ(Sandi?i)では数千人のボシュニャク人が捕獲・投降によってスルプスカ共和国軍に捕らえられ、後に殺害されている[59][60][57]。 道路を渡ることができた一団は、セルビア人による散発的な追撃に応戦しながら前進を続けた[60]。この集団の中では幻覚やせん妄の症状を呈する者が多数現われた。他者に攻撃したり自殺を図る者、その他意味不明の言動を繰り返す者も出ていた。行軍に加わっていた医師は、サンディチでの攻撃で化学兵器が用いられたと直感したと話している[7]。 道路を横断できた先頭集団は、ヴラセニツァ市のウドルチュ山を目指して前進した。行軍は夜間、出来る限り森の中を通るようにして進められ、13日の朝にはウドルチュ山のふもとにたどり着き、集団の再編成を図った。はじめ、コニェヴィチ・ポリェでの封鎖を破り後続集団を救出するために、300人の兵士をコニェヴィチ・ポリェへと戻す計画が持ち上がったが、後に計画は撤回される。昼の間、この集団はウドルチュ山で待機し、後続集団を待った。彼らはその後3日間にわたり、夜間を中心に北を目指して移動を続けた[60]。この過程で、一部の集団ははぐれてツェルスカ方面に向かっている。 13日の午後4時、ウドルチュ山で休息していたボシュニャク人の集団は、グロディ 14日の大規模攻撃で先頭集団からはぐれた一団を救出するために、一部の兵士が後方に残ることとなった。7月15日の夕方、第28師団は、スルプスカ共和国軍から奪ったウォーキートーキーを用い、トゥズラを拠点とするボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍・第2軍団との通信に成功した。
7月12日-16日: カメニツァ丘での待ち伏せとサンディチでの虐殺
7月13日: ウドルチュ山行軍
7月14日: スナゴヴォ山での待ち伏せ
7月15日: 前線への接近