スレブレニツァの虐殺
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1995年7月11日ごろから、セルビア人勢力はスレブレニツァに侵入をはじめ、ついに制圧した[4][25]。ジェノサイドに先立って、国際連合はスレブレニツァを国連が保護する「安全地帯」に指定し、200人[30]の武装したオランダ軍の国際連合平和維持活動隊がいたが、物資の不足したわずか400人の国連軍は全く無力であり、セルビア人勢力による即決処刑や強姦、破壊が繰り返された[18][26][27][28][31]。その後に残された市民は男性と女性に分けられ、女性はボスニア政府側に引き渡された。男性は数箇所に分けられて拘留され、そのほとんどが、セルビア人勢力によって、7月13日から7月22日ごろにかけて、組織的、計画的に、順次殺害されていった。

殺害されたものの大半は成人あるいは十代の男性であったが、それに満たない子どもや女性、老人もまた殺害されている[4][32][33][34]。ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方の分からない人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている[13]
事件後の経過: ジェノサイドとしての認定

スレブレニツァの虐殺は第二次世界大戦以降、ヨーロッパで最大の大量虐殺である[35]2004年ハーグにある旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)での「検察官対クルスティッチ(Prosecutor v. Krsti?)」の裁判において、満場一致のもと、スレブレニツァの虐殺はジェノサイドであると認定された[18][36][37]。裁判長テオドル・メロン(Theodor Meron)はその声明において、判決文から以下を含む部分を引用した。ボスニア・ムスリムボシュニャク人)の一部を消し去ることを目指し、ボスニアのセルビア人部隊はジェノサイドを犯した。彼らは、ボスニア・ムスリム一般を象徴する存在であった、スレブレニツァに住む4万人のボスニア・ムスリムの絶滅を目標とした。全てのムスリムの男性捕虜から、軍人も民間人も、老いも若きも別なく、所持品や身分証明書を奪い、意図的かつ組織的に、単にその身元(アイデンティティ)だけを根拠に殺害した。 ? 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[38]

2007年2月国際司法裁判所(ICJ)は、スレブレニツァの虐殺がジェノサイドであったとするICTYの判断を確認し[37][39]、次のとおり言明した。スレブレニツァで行われた、条約(ジェノサイド条約)第II条(a)および(b)に該当する行為は、ボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人集団自体を一定程度に破壊する明確な目的をもって実行されたと、裁判所は結論する。従ってこれらの行為は、1995年7月13日前後以降にスレブレニツァおよびその周辺にてスルプスカ共和国軍の構成員によって行われたジェノサイド行為である(と結論する)。 ? 原文英語。翻訳および括弧内補記は引用者。[40]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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